(二)二尊神信仰の世界と宗教の未来像
密教では、本尊大日如来は俗界(色欲界・無色界)等にあって、如来が自らの楽しみの為に金剛薩?を話し相手として、如来自ら是(金剛薩?)を生み出し、その後、仏菩薩を始め、万物を創造したとの経の記述は、大日如来の心中(自内証)での出来事であり、一般の創造主説とは著しく異る異義があった。
又、仏教が、我々を含めた万物を如来が自ら創造したと言う、その事象や現象の中で、我々の魂に「仏性及び性善説」を認めているとしても、その魂を高め開眼する方法は、密教では、大日如来を始めその化身である神仏の加持によってのみ実現が可能となる「加持世界」であった。加持世界とは大日如来やその化身である神仏の目から(側から)は新の解脱の世界となるが、我々の側からは如来と行者との三位一体の意気投合が必要であるから、如来加持の力が永遠に続くと期待出来ないと云うのが真実である。それは近似解脱であり刹那成仏の世界であったのである。何故なら、それは如来秘密の世界であり、我々が生きて踏み込む事すら出来ない自内証の世界であり、存在も無く、無でも無い、零的な存在が如来の世界だからである。我々凡夫には、如来の加持と行者の心水と我々の信心の強度が問われる結果となり、仏教の唯識論(全ての現象は、心の発言であるとする法相宗等の説く理論)と、空理論(無相を体とする三論宗等が説く理論)が大いなる障壁として立ちはだかったのであった。
仏教では周知のように、南インドの竜樹等が説きし空理論と、北インドの世親等が説きし唯識論の対比にて仏教の教義の深奥を説明する。それは現代哲学の両翼である唯物論や唯心論にも類似しているが、全く異質なのである。又、実存の哲学、共産主義や分明の発達史等に多大の影響を与えたヘーゲルの弁証法の正反合や弁証法的融合論にも類似しているが、やや異質なものであった。
仏教の空理論とは、前述の如く、五官を含めた心身とその対境の全てを否定尽くすと言う恰も宇宙に遍在しあらゆるものを吸い込むと云うブラックホールのようなものであり、其処には実有なるものは何一つないとするが、恰も、周囲全てを飲み込んだブラックホールが又一条の光から星へと再生して行くようなもので、宇宙の果断無く続く消滅と再生の変易のようなものを言いのである。それは恰も、数字の「零」のような概念で、虚無であるが、無ければ困り、数学が成り立ち獲ない事と同様な意味なのが空理論なのである。
又、唯識論とは、デカルトの云「人間は考える葦とし、考える、故に我あり」と云う思考に類似する。つまり、意識(認識作用)だけが真の存在にて、全ては心(識)の所成(造り出した物)であると云う説にて、唯心論の主張する我々の前に現前するものは全て我々の意識が作り出したものだから、何一つ真に実存するものでは無いと言う説にも類似している。又、有るがままなる存在、現象そのものを実存と認識する実相論にも類似している。だが、仏教の唯識論とは、心の潜在意識の最奥底に真理と即応合一出来る善性があり。衆生心の中に善性を覚智し、転識得智(5つの煩悩を転じて如来の五智を得る方法)を得て、他縁大乗心にて真理と即応出来ると説くのが仏教の唯識論である。つまり、数学の「X」類似しており、潜在意識の最奧にある仏性や善性(神仏から授与された天賦のもの)等と呼ばれる意識を転じて、妄執を取り除き、虚像を悉く排除して、意成身迄も排除して、真の実像を直視し、真実に即応せんと精進努力するのが、仏教の唯識論と云えそうである。
とにかく、この仏教の両理論を理解する難解さは他の哲学に比類を見ないと哲学者や宗教家等自身が口説くほどである。この難解さ故に、この仏教の難解な両理論を理解できる哲学者や宗教家等の一部は救われるとしても、我々は救われることはまずないと思うほど難解なのである。何故なら、神仏は「零」であり「X」であつたからである。
そこでこれ等の意味を曲解すれば、世の中の移り変わりにて、方便としての布施・忍耐(忍従)・禅定・・・等の解釈も曲解され、鬼道師達が歓迎され、物財を如何に節約し、彼等に布施し、今の時間を楽しく上手に過ごす人々が「美徳される時代」に突入していると予測するに過ぎないであろう。
結果としては、怠惰、自堕落、我儘、利己主義・・・等なる我々凡夫には、神仏が悪鬼神等でも善性等でも何れでも良いが、我々が心から望む真の神仏像は、一度、この神仏と縁を結ぶなら、後は我々の意志に関係無く引張ってくれるような神仏が望ましく、空海の説く第二嬰童無為心のような神仏であり、而も、キリストやマホメットの如き一神教でない神仏を希求したいと思うのは筆者だけだろうか。又それは、正しい仏教的素養にて可能となるのかもしれない。
各宗の祖師や宗教家達等が指摘するように、日本の多神教を土壌とする我々凡夫は「根気なく怠惰、移り気で愚鈍、狡賢くて性急、精進努力は惜しむが一人前の倖を望む・・・・」等と言う輩である・開き直ると、迷える子羊、雑草・ゴキブリ・・・等だからこそさ迷える凡夫なのである。又、これ等のことは我々凡夫の中でも特に、現代の学歴偏重主義、科学万能主義、自虐史観を持つ教養人、宗教を利用する鬼道師達、自由を履違えた得手勝手な輩・・・・・等、人間らしい心を無くした非常識人・・・等々の人間達への怒り込めた警告や忠告だつたのかも知れない。又これ等の輩は、歴史的素養の無き者達かも知れない。
だとすると、正道としての本尊、宗教(仏教)の対象としての神仏の未来像は、我々凡夫からすると。
(一)躾と厳しさの中に情智ある父として、信ずる者を護り、善導し、最後に解脱へと引率してくれる神仏。
(二)優しさの中に愛智ある母として、愛憎を浄化し、本能そのものをよき方向へ育ててくれる神仏。・・・・・が、正に人間らしさを善導してくれる宗教こそ正道であり、正道の未来像を荷う事となるのであろう。
言葉を換えると、これ等一・二を満足するものが「二尊信仰」の世界なのである。
前述の三尊信仰の「三」の数意も「一」と云う数意も我国では縁起の良い数意をもつ数と解釈するが、対して、二尊信仰の「二」と云う数意は、天と地とか、対立の意味を基底とし、対立と協和、破壊と再生・・・等を繰り返す意味があり、更に、陰気、陰の始まり(坤=未申=裏鬼門)・南西・茶褐色・混沌・地門・死門・太陽の沈む処・・・等と続き、あまり縁起の良い数意には使われないのが特性で、我国ではこれが一般的で葬式の香典の札数にも使用されている。だが、仏教の即の意味での説明で良く使われる「不ニ、而二・一如・事理不ニ・理知不ニ・・・・」の深意からすれば、二は単なる対比からではなく、協和と一歩前進した深意を説く意味にも使われるので、仏教の関係性(縁起)との意味から転じて、「即であり、妙であり、不一不ニ・妙法・・・・」等の空理や唯識等の深意を説明する便利な数に転用されて行ったのである。
二の対比の意味と協和の意味もある不一不ニ、即・妙・・・等の意味を満足する二尊信仰の世界は「夫婦的な尊」において「対比と即妙」等の方便の深意を満足するものであり、陰陽・事理・理知・愛智と情知・・・・等々の仏教の哲理や世俗の倫理等をも満足するものであった。
但し、最終理想としの目標である「解脱」に於いては一段下るが、それから産出されるもの等を含めるなら、夫婦的尊なら二尊であっても「一尊」とも云えるし、最高の夫婦的尊から生み出される子孫等は又、三尊信仰の世界や多神教の世界をも満足さすものであった。
胎蔵界の大日如来一尊が産出す森羅万象の世界、神々等の処女懐胎説、又、男神等の目からでも子孫等を産出す等の神話は、国造り神話・・・等、現代の科学にても可能なものもあるが、処女懐胎説等に関しては、現代科学の限界としては、雌の卵子のみで生殖なしで産まれる事は可能だが、無限の雌の世界(カグヤ説)なのであった。 つまり、現代科学の限界は、雄世界である金剛界の世界迄を満足さすものでは無かったのである。
対して、独断と偏見にて、胎蔵曼荼羅から夫尊を独り、金剛界の曼荼羅から妃尊を独り選び、仮に夫婦的尊とするならなら、零なる神仏のプラス面(夫尊=生面)を包み、さらにそれは、共生と死後の輪廻、即ち、零なる神仏のマイナス面(妃尊=死面)の原理をも満足すると云えるものであった。
且っては、インドの神々や仏様や如来様達には夫尊と妃尊が存在していた。是に関しては日本の神々も同じであった。だが、何時の時代かは定かでないが、仏教の「仏菩薩様や如来様達」には男尊女卑の社会風潮か、大乗仏教の深意なのか、何れの理由かは定かでないが、天部の神々を除き、夫婦尊では無くなり、如来様達等は、中性的か、男女和合か、男性的か、男女の何れにも変身できるのか・・・・等と不明の存在となって、妃尊の伝承は無く、一尊(夫尊か?) として日本に伝承された。だが、奇妙なのは、同じ仏教の密教系の伝承でも、チベット系への伝承には大日如来を始め、多くの仏如来が当然の如く妃尊を脇に侍らす姿で描かれており、夫婦尊が信仰の対象となつていた。近来有名となって多くの国にて訳され、死への指南書であり、中有(日本の満中陰)等を説くチベットの死者の書」等に登場する仏菩薩や如来様は何れも夫婦尊として記載されていた。
日本にては歓喜天(象頭の男女が抱擁し合体する姿・奈良生駒の聖天)のような神様は特異な尊神として存在しているが、彼の「チベットの死者の書」 では、夫婦二尊が抱擁しあう淫らな姿が中有に於いて、当り前のようにボンボン出現ししてくるのであり、前述の大日経や金剛頂経等にも淫らな解説を施しているのであった。余談となるが、死者の書では、我々の魂が死後に於いて、中有(中陰)において、最長にして最悪の事態でも四十九日間の間が中有の期間に他界に甦生し、輪廻転生を果すと説いている。祖の為に生前に六法の観法を勧め、死後はラマ僧にて、死後の魂(死人の耳元で)に向かいて、恰も生きている人にでも話すように呼かけ、我々凡夫の魂(迷える魂)に少しでも上の仏国土に行けるよう道案内をし、更にその心構えを説くのであった。これは今でも行われ継承されているのである。又、霊性の前に現善する神仏(右婦尊)を見て、男子が妃尊に嫉妬すると、未来はその神仏の国の女性として生まれ、女性が夫尊に嫉妬すると、その神仏の国の男子に生まれるとも言われ、その逆なら逆もありうる等している。
さて、とにもかくにも、これ等のことは人間の煩悩の原点が「性欲と人間の生死」等にあるとの認識にて、それ等に付随する「欲望・煩悩・無いものを有ると執着する邪念・・・・・」等々を浄化し、善導し、ある程度我々が教理の深奥を理解させて、而も、満足させようとする方便としては、両親であり、夫婦的尊・夫婦尊・・等」が親しく説明するのが一番良き方法であるとの結論に到り、これ等の全ての意味を含味し、我々を納得させる事が出来る「二尊信仰=夫婦尊・夫婦的・・・・等」を原点とし希求し、それをシンボル化して行ったのであろう。これが夫婦合祀の「死者の書」を始め、多くの経典が夫婦合尊・夫婦抱擁尊・像頭合体尊・・・・等を記載し、涅槃の境地をセックスの恍惚境等を以って説明しているのも多いのである。
こり意味から、空海の理知不ニ法身(金胎不ニ法身=理法身大日如来、智法身大日如来=秘密主(女子の陰部)・金剛主(男子の突起部))、陰陽道の陰と陽(女・男・・・)等を主催する「理身(真人・神人・真神)」等、儒教、道教、神道等の「真神・神仙・神人・聖人」等、・・・・・等も人間味豊な存在であった。又、浄土真宗系の開祖達が性欲を重視し、一種の諦めからか、僧にも妻帯等を認めさせた快挙は、所謂、夫婦を原点として信じ合いてする信仰か、夫婦的本尊への信仰を望んだのかは不明だが、「人間味ある宗教・人間味ある最高の神仏(他力本願)」等こそが、本来宗教のあるべき姿と云いたかったのではなかろうか。
又、哲学的には、西欧の弁証法の「正、反、合」の思想の発達史的見地からの思想と、東洋の陰と陽の相関、それをコントロールするのが理であるとする東洋流的「相生・比和・相剋」等による万物の生成変化の組成史的展開等とは、ある面では類似しているが、前にも述べた如く、全く異質なものであり、その両者の思想の全てを是認する事も出来ないと思われた。
理由は、正しくは、異なる環境等に育った他人が、男女が夫婦となり、葛籐しながらも子供を育て、自然環境、社会環境に適応・順応等をして行く過程が、進化論や退化論的見地からか、定着民族、農耕民族等を選んだ思考方法が、日本独自の思考形態の原点であり、それは「融和・感応・対立・混合・支配・応募・横暴・畏怖・・」等々、人間の持つ全ての喜怒哀楽の感情が環境等の周囲の関係から、従属し、共生し、適応し、融和し、畏怖し、尊敬し、崇め高め、危ぐ、輪廻する・・・・等々とした接し方から、我々の人間史が存在していると見るべきだからである。
其処に空海が言う、神仏同志の本地垂迹説等に「感応・合一・一体化・混合・融合・・・」論等と重ね合わせると、慈悲にて、不ニ法身大日如来(加持身=法身)が出現し給う事となり、又、我々人間と重ね合わすと南無大師遍照金剛であり、同行二人の世界、神様と道連れと云う思想が出現しても、何の不合理でなく不都合も無いから不思議なのである。
そこで、独断と偏見によって、我々の未来を救い給う神仏を、日本の現仏教密教中から仮に選ぶとすると、父尊なる神仏に妥当なる神仏は、不動尊(別名、無能勝如来、又は、不(無)動金剛明王・勝忿怒王等とあり、不動尊妃が居る)となる。又、この尊の妃尊となるに相応しい神仏は、愛染王尊(別名、金剛愛菩薩・金剛王菩薩、又は、愛染明王等とあり、愛染王妃が居る)となるのが相応しいのではないと推せられる。
何故なら、神仏には夫々に誓願があり、三昧がある。父なる神仏として妥当だと思われるも神仏と母なる神仏に相応しいと思われる神仏も、正しくは偉大な神仏ではあるが、我々の為に方便と慈悲を以って、仮の姿にて、親しく我々の現前に出現してくれる加持身(報身)であり、変化身が妥当だと判断出来る。彼等神仏は、我々の最終煩悩である習癖の幻影を取り除き、善性を開発し続けてくれる「良き友人であり・両親や祖父母であり、時には配偶者となる・・・」報身(智法身、この場合は理智不ニ法身)であり、変化身であり、我々の魂、霊性を善導し続けてくれる神仏が理想だからである。つまり、宗教の未来像は、前述の「三尊信仰か、親しく我々の方に向いて下さる夫婦尊的神仏(不ニ法身(加持身)か、夫婦尊か、変化身(等流法身)等への信仰形態が相応しく、二尊信仰かが、象徴となるだろうと推測出来る。又、我々の生活基盤は家族と言うより、独身者を除き、現代は夫婦単位の生活基盤であるが為に、その共同体での協和、共栄、共存・・・等を含めて、共に祈れる信仰形態が必要だと思われるからである。更に、我々にはこの世での「真の解脱」は度大無理だと諦めるとき、せめて、死の瞬間・死後四十九日間の間(中有の間)に最初の輪廻を終え・その後、三界六道に(三界六道を迷の生死を重ねて流転して留まること無を云う)甦生の命を重ねながら、擬似解脱や近似解脱等を繰り返しながら、最終的には他力本願であっても、如来の加持力によって何劫年かかっても、影の支援者となり、同行二人となり、我々を「真の解脱」へと導いてくれる神仏を欲しいと切望し、それを願うからである。
以下、これ等の事を経典から追補して見よう。
さて、筆者は独断にて、我々が最も親しみ深い仏教の神とも仏様とも神仏両用として祭祀される「不動尊(明王)」を父尊として上げたが、この不動尊の妃尊は日本にては祭祀される事は無く、夫尊の一尊か、おくの忿怒尊の中の男性的な一尊等を祭祀するか、又は、不動尊を本尊として、その脇持に眷属二尊を配し、併せた三尊が祭祀されて居るのが通例であった。不動心とは、この尊が岩盤の上に立ち(坐像もある)、火炎を光背として(火生三昧に住し、内外の難障と穢垢を焼き、一切の魔軍・寃敵を滅す・・・・云々)、身じろぎもしないこの尊の禅定を云うとして知られている。
夫婦的尊を如何に考えるかは問題もあるが、とにかく、日本流的な解釈として、一尊を「合尊(男女)=中性=完全性(両性)=曖昧性」等なるとの解釈もあり、そのような神仏が不動尊(父、夫尊)とも考えられる事から、一尊の不動尊が如何なる方なのかの深い追求はなされなかったようである。又、梵名はAcalaから無動や不動と訳されている。
一説では、不動尊は、元来ヒンズー教の主要神であるシバ神と云われ、破壊と再生の神であったが、密教が起り、密教を擁護する神となり、別格扱いの仏部を守護し、「大日如来の教令輪神」として祭祀されて神仏両用の神とであった。密教の主尊大日如来から未来に如来号迄を授与された偉大なる尊神で、胎蔵界曼荼羅の五大院(持明院)の盟主として優遇されているのである。
明王とは「仏菩薩の使者」と云う意味だが、先にも述べたように、密教は胎曼荼羅に於いて、五大明王院(持明院)に配属し、この尊を以って、明王中の明王としたり、大日如来の化身としたり、盟主(明王の総主)とする。更に、大日如来を始め、大日如来と同等の他の仏如来即ち仏部(仏如来様の居られる居所)を守護し、教令輪神(最高の仏如来の教令だけを伝える伝令者)とするのであった。
筆者何故この尊を仮の夫婦的尊の夫尊に選んだかと言うとこんな理由ある。
この父尊として選んだ不動明王の三昧(誓願・住心)は、妃尊として選んだ愛染王(明王)が九会曼荼羅(金剛界曼荼羅)の中に居り、愛染曼荼羅(四圍に意性・計里・枳羅、愛楽、・意気の四金剛・四金剛女・色声香味の四菩薩・外院に時春・時雨・時秋・時冬の四菩薩からなる曼荼羅)の主尊であり、馬陰三昧・王者三昧であるのに対して、全く正反対の「奴僕三昧・火生三昧」住する。而も、胎曼荼羅の持明院の盟主(明王の総主)にして一切の魔軍や寃敵を打破すると言う。又一度、我々がこの尊との結縁すると、過去・現在・未来の三世七代に渡り、結縁者(信仰者・行者)等を主人として、主人の奴隷となって忠誠を誓いて、守護してくれると云う「本誓・誓願」を有されるからである。
つまり、この尊を信仰すると、明王は信仰者の残食を食しても、信仰者を主人として忠実に使え、主人を守護する召使(奴隷=奴僕三昧)のように守護してくれる反面、この尊は少々頑固で潔癖なところがあり、信仰者が如何に怠惰であろうと愚鈍であろうと容赦なく、あらゆる方策を用いて、怒ってでも、勝手に信仰者を解脱へと引導する神仏であると云うことである。修行者には特に厳しく捨身修行を強要し、邪淫を極端に嫌うとも云われている尊なのである。
さて、この尊の尊像と尊心(身)等を経によれば、概して忿怒像にて、頂の垂髪の七結あり、その七結は七代の主(あるじ)に忠実なる召使となる証(奴僕三昧)しであり、頭頂上の蓮華は信仰者・行者の望む菩提成就の彼岸(仏国土)に到達さす(十方往生)為の証しである。忿怒の相は内外の難障と穢汚、一切の魔軍と寃敵を摧破することを表す。又、磐石(大岩)の上立ち、或いは、坐すのは、足下の堅固と磐石の不動心を示し、一眼は天を睨み、一眼は閉じる。或いは、二眼の一は天を睨み、もう一眼は地を睨むのは上求菩提・下救衆生を表す。左手の索(縄)は、自在の方便にて衆生の意馬心猿(障気・狂気等)の狂を繋ぎとめる為とある。又、火炎を光背(火生三昧)とするのは、如何なる苦難にも所信決心の動かぬ事を云う。右手の剣は、智剣にて、方便にて一切の魔軍・寃敵を摧破する。全身青黒の忿怒尊で磐石の上に立つ立像か、坐像がこの尊のスタンダードの姿形である。他に、滋賀の園城寺の黄不動・京都の青蓮院の青不動、和歌山の高野山の赤不動、千葉の成田山の波切り不動(何れも立像)・・・等が有名である。新義真言宗(成田の新勝時・奈良の長谷寺)等はこの尊を大日如来や金剛薩?の所変として最重要視しているのである。
対して、この不動尊妃は、夫、尊がアーリヤ人に征服されたインドの土着、農耕民族ドラビィダ族の王と言われるのに対して、大自在天(ヒンズー教の主神)とも言われ、吉祥天女のような姿形にて、天衣を身に纏いて、供養菩薩のように夫尊に寄り添い、夫尊の本誓に従いて常に尊を讃えて供養する六肘の女神像が一般的である。尊妃の霊験は夫尊と同様広大無辺にして一切に通ずると言われていた。
次に、我々凡夫がこの尊に自らの願いを叶えて貰おう(願望の善悪には関係なく)とするなら、種々の香辛料と酒、つまり、酒肉等を一切断つ事が最低の条件であることは他の神仏と余り変わりが無いが、この尊は特に色欲(不邪淫戒を守らない事)には厳しく、祈念中にこれを犯せば、効験が無きばかりか、却って尊の怒りを買い神罰や仏罰等を含めた罰を蒙ると言われている。
又、次に、この尊の修行者が霊験を求めるのであれば、この尊が「奴僕三昧」を本誓とする為に、捨身修行をして初めて、尊の修行者(弟子)と認められると云われ、それは恰も獅子が我が子を谷底に突き落とすと言う厳格さであるという。だが、他方「慈眼を以って、衆生を見ること一児の如し・・・」とあり、この尊の本誓を主体とした智と慈のバランス構成は、正に絶妙な極みにて、不動心(火生三昧)そのもので、而も、菩薩行「五大願」迄もクリアした奴僕三昧の世界であり、死者を甦生さす事も可能なる尊神なのである。
だが、密教はこの尊の本誓を利用し、怨敵退散・悪魔降伏・国家守護・・・等の主神、宇宙最強の最大で残忍非道、暴悪なる破壊神の王としてこの尊を祭祀した。それが真に妥当か否か疑問である。とにかく、この尊の本誓からすると、呪う者、呪われる者等共に、今頃は、尊の頭頂の蓮台に無理無体に載せられ、縛り付けられ、殺してまでも悟りを開かせ、後に、甦生さすまでの間に、躾や養育、修行・・・等をされるのは「自明の理」だからである。
故に、筆者はこの尊こそ、真に「情理」を持つ最高の人格神と推し、夫(父)として偉大なる尊として、未来にても信仰の対象と成り得る神仏であり、独断であるが、二尊信仰の夫尊としても相応しく、又、零なる神仏であり、極無であり、宇宙意思・・・等々とはこの尊を云うのでないかと思われる。
次に、筆者がこの尊(不動尊)の妃尊として二尊信仰の対象と推した密教の最秘仏とされる金剛界の愛染王(明王・金剛愛菩薩)について紹介しょう。
愛染王とは、インドの最古の聖典ベーダー(リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバ)や、祭式の仕方を説明するブラフマナ等に登場するインドの赤い神様として登場するユニークな神様であり、梵名はRagarajaと云い、密教にて愛染王・愛染明王と訳された神仏である。密教ではこの尊の本地は大日如来・金剛薩?・金剛愛菩薩・普賢菩薩等と呼ばれ、大日如来所変の最秘仏として重要視される神様であり仏様なのである。 又、古儀真言宗(神護寺系流)の中のある広沢系流は、この愛染王を大日如来に変わる本尊として最重要視するのである。
経に依ると、愛染王とは「大日如来に愛染し、如来(大日)に護念せられ、衆生に愛染して、衆生を解脱せしめる本誓があるが故に、愛染王の名がある・・・・・云々(愛染三昧の説明)」とある。又、大日如来の話し相手と言われ、大日に次ぐ最尊、金剛薩?の所変で「菩提速疾の主尊」で有るとも云われる尊神である。
経に曰く「馬が欲情を催す時は陰部を出し、欲情の止む時は陰部を蔵する如し・・・云々(馬陰三昧の説明)」との形容にて、我々の煩悩及び性欲自体の動静も各の如しであると説明する。愛染王は我々のこうした動静を浄化してくれる神仏であるため、この尊の三昧を「馬陰三昧・愛染三昧・王者三昧」等に住すると言われている。王者三昧とはこの尊の本誓は、特に「敬愛」を主とし、相憎しみ合う者達を和合させ、更に、最上の信任を得させる・・・・と云う、この尊の独自の霊験と功徳によるものだろう。
又、この尊の呪文と印契を以って加持すれば、猛毒をも無毒化し、却って甘露の味になると云われる。又、宿曜の凌迫している場合でもこの尊を記念すれば、その災いを逃れる事も可能であり、この尊の根本真言を30万遍を至心に唱えれば、「一切の者に敬愛され、一切のものを調伏し、和合せしめて、極めて、安全平穏(王者三昧の説明)を得られる・・・」とあり、前の不動尊の「奴僕三昧」とは対照的な、「王者三昧」の異世界を作ると私考する。
女性が、茶を断ち、塩断ち、・・・羅して祈る夫の浮気封じ等はこの尊の得意分野であるが、色彩の神の意から、色に染める、色を染めると解釈され、水商売の繁盛の神・花柳界の女性の守り神、染色(職)の神(染物)・・・・等と解釈された。とにかく、我々の煩悩をそのまま浄化してくれる心優しき神仏なのである。
さて、我々人間社会に於いて、@枠外と見なされる変人奇人達を天才と言えるなら、それ等の人々は他を顧みずに孤独に耐えて好きな事に夢中なれる人間と言える。又、世情の損得を度外視した芸術・技術等の合理を旨とする「情知・情理」等に支えられた感性的人間の多く住む世界を作ると云えるかもしれない。逆に、A天才以外の一般人達を常識人と呼べるなら、それ等の人々は「安全性・無難性・平安性」等の「情理と心情」等に支えられた人々達と、共感と共応、同一化等に安息を見ることが出来る人間の多く住む世界を作ると言えるだろう。
不動尊の「奴僕三昧や火生三昧」は前記@の我儘で、横暴で、無頓着で無邪気な天才達の「情知」を勇気付け、彼等の孤独で侘しさを、七代に亘たりて輪廻し引率し、心(魂)を癒してくれる尊神として最も相応しく、而も、神仏の頂点に立つ、破壊王であり、創造主であり、護法神であり、神仏合体と云われる尊神だからこそ夫王に推したもう一つの理由である。
対して、愛染王の「王者三昧や馬陰三昧」は前記の後者Aの我々一般人を和合ある統率の中に於いて、煩悩をそのままに浄化し「愛智」を得させ、協和和合し、寛容心を得させると云う事が可能だから、孤独に弱く、誰かと一緒に行動したいが、率先して事を為すのを嫌がる我々を「愛智」にて勇気付け、根気無く飽き易い我々を優しく引率してくれる神仏であり、全ての神仏の技芸・芸術゛・技能・学問等の頂点に立つ教王であり、慈王であるから、筆者が未来の二尊信仰の有様として、愛染王を不動尊妃に推した所以であり、尊妃に相応しき神仏合体の尊神云えるだろう。
愛染王の姿形であるが、概して、一身両頭(一身一頭、三眼(眉間に一眼と両眼)もあり)にて、左顔は忿怒の赤面、右顔は慈悲の白面、遍身は白又は赤色、金剛薩?のような姿形にて、左手に五鈷鈴、右手に金剛杵を持ち、頭頂に五色の光が燦光し、日輪(太陽を光背とする)の中に住し、紅蓮花の蓮台に座す尊像である。又、愛染王妃は、一説には如意輪観音とも言われ、天衣を纏う天女の姿に描かれ、夫尊を供養し寄り添う姿が一般的である。勿論、日本にては不動尊妃同様愛染王妃が祭祀されることは無かったようである。筆者が推する二尊信仰の二尊は、何度もくどいようだが、妃尊達で無く、不動尊と愛染王尊の夫尊同志を仮に夫婦的尊としたものを推しているのである。
インドの赤い神様、ベーダにも記載される赤い神様で、色彩の神様が密教の愛染王であり、不動尊はアーリヤン民族に支配された土着の農耕民族、ドラヴィダ族の王様であったようだ。
愛染王は、日本にては「芸術・染色・花柳界・・・」等の神として祭祀されたり、又、浮気封じの神様等として、変態的な儀式や呪法に応用されたりしているが、要は我々の「根本的本能、性欲や愛の葛藤・・・等」を浄化してくれる神仏であり、我々を明るく楽しく遊びながら、我々を愛染し、次第に厳しく寛容心にて教導し、この尊と結縁したが最後にて、如何なる事が有ろうとも、我々衆生を常に愛染し・愛念、護念して離れる事無く、我々の煩悩・欲望・執着・・・・等を次第に浄化し、善化し、而も、愛智を得さしめながら、解脱の道へと引率してくれる尊神なのである。
この点、不動尊は、日本では、交通災害除け・悪霊退治・悪魔降伏・怨敵退散・・・・等の主尊として君臨し、魔王中の魔王でありながら、愛染王とは逆に、奴僕三昧、奴隷の姿にて、欲望を戒め、煩悩を悉く摧破する。又、魔軍をも摧破する特に邪淫・姦淫等に厳しい尊神である。又、この尊神の誓願とは裏腹に、護摩法等が考案され、護国や国家安穏を祈念し、仇をなす敵を降伏し、怨敵(霊)等を退散せしめ、破壊と再生を併せ持つ護法神であり、教令輪神となり、神仏までも殺戮出来るとし、更に生と死、殺傷と甦生等をも司り、支配出来ると言う超強大な力を与えられた尊神なのである。
さて、我々人間は自然の摂理から生まれた突然変易の類なのかも知れない。だからと云っても、母なる自然を無視して単独で生きることは出来ない。突然変易であっても我々は、地球の子であり、宇宙の子でもあることになる。だとすると、子は親の遺伝子を受け継ぐように、我々も又地球や宇宙の遺伝子、宇宙意志としの神仏の遺伝子を少なからず受け継いでいる事になる。此処に我々が極微細な細菌(単細胞)から進化し、他の細菌(単細胞)等と和合し共同しあって、一個体の遺伝子を作り上げた細胞達。その細菌等が経験した過去の貴重な経験や体験、脳の奥深くに刻み込まれた外界との適応、順応、変革、進化、退化・・・等の仕方等をもう一度思い起こす必要が有り、其処に又、新しき共生と輪廻転生の問題と、解決の糸口が見つかるかも知れないのである。
故に、我々人間として基本は、彼等細胞達等が夢見た共同体の息災と、子孫長久を共に願望するところにあり、より良い子孫を残し、より良い遺伝子を子孫に残すためには、個としてより、男女として、夫婦として、単一な共同体として、産出す方法が良いと考えて、現代の我々へと進化したのであろう。
故に、我々も個ではなく、社会の最小単位である夫婦を個とした視野を通じて、利己的遺伝子を造る事にもなったが、我々の社会やそれを取り巻く環境との適応を今一度思考する必要があるのではなかろうか。
個体としての生と死は経に説くように「虚無」であり、孤、空であり、零であるかも知れない。
「生と死」に平穏と安楽等を願うのであれば、苦楽を生じる根源である社会における「社会死=集団死」等も問題となり、平等の中に差別あり、差別の中に平等があり、天国も地獄も存在しなければならないだろう。人間が人間として、夫婦として共に霊性を信じて、人間らしく模索するのであるなら、其処には自然との適応を通じて、独善的だが、宇宙意思を認知する事も可能かも知れない。
さて、仮に、宗教の目的が、我々が煩悩(執着)を離れる事を最終目的とし、我々人間の心(魂・精神・霊性)の開放にあるのであるなら、曖昧な寛容性を示唆するのではなく、神仏の奇跡を我々に信じさせて、それに固執させるような宗教集団を組織し、それを維持するためのみに狂奔すべきではない。
バブルの付けは、恰も、政治家や企業家とかの何れが悪いか判定するようなもので、彼等が脇役か主役かを判定したところでバブルが良くなるわけでもない。政治家達の社会的制裁や処罰等をマスコミは手柄の如く取り上げるが、政治家も企業家等も社会的制裁は我々に対する名目のみにて、懲りもせずその体質を改善することはまずないのが殆どである。それ等の癒着を誘引した官僚達等には何の御咎めも制裁も無く、常に平穏無事なのは実に不可思議な事である。
兵庫県南部の震災時における政治家や官公省庁の対応の拙さは、正に引責、更迭ものであり、道路公団や建設省、所轄官庁の言い訳を聞く限りでは、何れも五拾歩百歩で実に幼稚で恥かしき限りであった。
被災住民の一部を除き、殆どの人達は、その苦しみに真正面から取り組み、耐え抜きながら、動乱する事も無く冷静な対応する姿やそのモラルある行動は「世界の冠」たるものであり、我国日本もまだまだ「天国」に、神様達に近い国だとホッと安堵と救われた思いで一杯となり、精一杯の声援を衷心より送りたい。
たが、一部の被災者だが、日本国民の甘えの感情が又、随所に見られたのは大変残念な気がした。
又、それ等に付け込み、あらゆる風聞を流し、更に、住民達の甘えの感情を物見遊山的に煽り立て、法外な物を売り付けたり、被災者達を動揺させたりする輩(鬼道)が徘徊し、詐欺紛いな事するのは、実に赦し難く度し難い犬蓄生達であるが、彼等の行動を見ていると、真に哀れであり、人間として此処までするなら、救われなくても当然な連中なのだろうと思えるから不思議である。
空海が「仏法遥かなるに有らず、心中にして即ち近し・・・・」と云ったのは、身を持って、自由に体験出来る宗教が正しい宗教であると叫んでいる様であり、正しくは、善であり、零であり、真である・・・等の神仏達と同行二人であり、共に気楽に歩める宗教で無ければ真の宗教ではないと言う意味だろう。
つまり、真理そのものでありながら、慈悲あるが故に「報身・加持神・理智不ニ法身」が、人間をこよなく愛して、而も、人間としの我々の情知と愛智を高め育てながら、共に悩み、時には叱咤し、引導してくださり、時には両親であり、時には夫婦、時には友人、時には先生・・・・等として(観音様の33変化身のように)変身して下さる神仏を信仰する宗教こそが宗教の正道であり、宗教の未来像であると預言するものである。
それは先に述べた「三尊信仰の世界」でもあり、又、「二尊信仰の世界」でもある。何れを選ぶかは自由だが、要は、我々には常に「0・X=神仏としか云いようの無いもの」を仮定するか、想定しないと解けない神秘な謎が余りにも多過ぎるからである。又、我々は悔悟と反省、思索・・・等を繰り返しながら、暗闇の中を手探りで、それこそガムシャラに生きて来た。それは又、明日を見透せない、占えないのが人間だからである。そこでは、我々が真に希求するのは、我々を先導(善導・教導)してくれるのは、0でありXである神仏となるが、それは人間として生まれて真理を体得した覚者達で無ければならず、伝説上の神様や仏如来様でなければならない。彼等神仏は人間として生まれ、宇宙の根源と同化した人達であり、宇宙の根源であり宇宙意思であり、最高の人格神となり得た者達なのである。故に、彼等神仏を通じて我々は、人間の心・魂・脳・五官・・・・等に通じて宇宙の根源を知ることも可能となり、正しい方向性を見出す事が出来、0でありXである神仏を想起することが可能だと思えるからである。但し、それは希求して、信じて、初めてなせる事かもしれない。
他方、我々の希求とは裏腹に、唯識の説く「習癖となった意成身(観想された神仏像)」は常に否定されるべきもので、空理論の三千三諦の煩悩否定しても否定し尽くされるべきものでは決してないと知るべきものでもあった。つまり、諦観するしか方法はないようである。
此処に、筆者が推した宗教の未来像として、不動尊と愛染王との二尊信仰のような神仏(合尊・夫婦的尊)が、宗教の正道としての狭間に存在し、我々と共に変易し輪廻しながら共生してくれる特異な神仏の有様があると考えられるのである。
真の解脱は我々人間の最終目的ではあるが、それは到底不可能な望みと知るべきである。我々はせめて、魂(霊性)の輪廻転生に夢を繋ぎ托し、何れの時期にか、何劫年先かに「真の解脱者」になれる夢を見るのも悪くはないだろう。真の解脱が、出来るとは神仏の我々に説きし「慈悲」であり、何劫年先か不明ではあるがと言う方便だろう。そう理解するとき我々は現世を律し、人間らしい生き様を模索する為の手段である、「菩薩行の真似事」、せめて一日一善を目標としての生き様をしようと理解出来るであろう。
それは又、焦る事無く、目的(解脱と言う目的)の中で怨念や執念を燃やし続けて、果てしない時間を要して達成出来ることで、古聖が開運とは「自分の努力と、人々の支援や応援、神仏の加護と、周囲に感謝する事に・・・・」開運があると説明しているのは実に妙を得た言葉であり、回答であろう。
「以我功徳力 如来加持力 及以法界力 普供養而住」
合掌