(三)判教から見た宗教と正道
 神道は、我々の祖先が人智を超えた神々の存在を認知し、有的のものと把捉してそれを信じた。そして神々の持つ神通力や妙力、不可思議力等を畏怖し畏敬し神仏として信仰の対象として祭祀して行った。神々を讃えて祭祀する方法は、西暦九二七年、藤原忠平等に依って編纂された「延喜式」に詳しく記載されている。その主眼とする心は「宣命」に有るように「明き淨き(アカキキョキ)、直き(ナオ)誠の心」であった。 その後、外来の文化や宗教等の影響を受け、外来の儒学は日本の神道と共に「政り事や国学」となり、後に、神道は外来の儒教や道教、陰陽道等の思想を混じて、古来の興神法鎮魂法等を継承しながら、不浄・邪気・邪霊等を払い清る御祓・禊・・・等を行い、神の怪等を除災することを専門とする宗教と成って行った。 対して、外来仏教はインド古来の[婆羅門(ヒンズー教の僧、バラモン階級)・クシャトリヤ(王侯階級)・ヴァイシュ(庶民階級)・シュードラ(奴隷階級)]等カスト制の母胎となつた階級差別への疑問から、アーリヤ人である仏教の開祖釈迦が階級差別無き宗教を目指し、ドラビィダ人(インドの原住民)の宗教と接し、出家し遊行者(バリバージャカ)なり、悟とり「平等を主旨とする仏教」を開教したことから始まった。それは又、釈迦自身が言うように仏陀への道、悟りへの道、覚者道であり、神仏の前では身分や地位、貧富等の差別が無く皆平等であると説いたのである。それは奇すしきも、日本の神道の「神の前では皆同じ・・・・」と言う思想とも類似していた。
 少し余談となるが、釈迦の誕生した時代には、当時の沙門として、仏教経典には「六師外道」の記載があり、著名な六人の宗教家の名が記載されている、その六人とは@プラーナ・カッサバ・Aマッカリ・ゴーサーラ・Bアジタ・ケーサンカバリン・Cバクダ・カッチャーヤナ・Dニガンダ・ナータプッタ・Eサンジャヤ・ベーラッティプツタと云う祖師達である。
 彼等が重要視したのは善悪の行為はその通りの結果(報い)になるか・・・と言う事で、
 @のプラーナ・カッサバは、如何なる残虐行為をしても、善悪の行為そのものは、道徳的結果をもたらす事は無いと言う道徳の否定を主張した。
 Aのマッカリ・ゴーサーラは、人間の向上も下落等にも因も縁もないとして、偶然論や宿命論を主張した。彼自身は苦行によって解脱を得ようとした沙門であった。(アージーブィカ教の開祖)
 Bのアジタ・ケーサンカバリンは、地水火風の四元素の実在説を説き、唯物論を主張し、道徳行為の無力を提唱した。
 Cのバクダ・カッチャーヤナは、地水火風の四元素に苦楽生命を加えた七元素説を説き、残虐行為はこの七元素の隙間を通り抜けるので、現実には成立しないとして、七元素のみの実在を提唱した。(後、勝論に発展)
 Dのニガンダ・ナータプッタは、ジャイナ教の開祖で心身の束縛を離れる事(ニガンダ)を目的として、苦行に依って解脱を得ようとした宗教で悟り利を得た人がジナ(勝者)であった。
 Eサンジャヤ・ベーラッティプツタは、懐疑論者とも云われ、質問に対して確定的な答えをしないのが特徴で、知識に対する懐疑と不可知論があり、古来の論理学(三段論法)やニヤーヤ(数論)に対する反省もあったと言われる。
 以上がインドの六師外道の簡略説明であるが、仏教に多大の影響があるのはDのジャイナ教である。
 さて、仏教の説く「仏陀(覚者・如来)」とは「一切の性と法をあるがままに知見して、等正覚を成就した大聖人達」ことである。或いは「一切智と一切種智を成就した者達」との意味であり、宇宙の最高の人格者、真理そのもの・・・・等と同等の見識あるものであり、真の解脱者が大聖釈迦なのであった。
 だが、その覚性は「等正覚」である。それが後に問題となる「法性身・理法身・智法身・等流法身」等する仏身論として、釈迦の修業段階と真理の世界、悟りの内証段階、合一・来臨・・・等を含めてその覚醒段階を説明するの事となった。だが、覚者道と言われる仏教も日本の風土の洗礼を受けてか否かは疑問であり、又、西暦九八五年源信の「往生要集」に見る如くの説教師達の布教依ってかは不明だが、それ以後の仏教と言えば極楽浄土を夢見てか、「(厭離穢土・欣求浄土)(因果報応・輪廻転生)(厭世観・無常観・無情感)(霊供養・淨霊・禊・御祓)(七難即滅・七福即生・怨敵退散)・・・・」等の言葉が主要な仏教用語であるとして我々の心に深く根付いて行った。
 只、日本の宗教の中で特異なものは、自らの宗教を祈祷宗と開き直り、三国伝来の神々を仏菩薩との本地垂迹の思想にて、差別や区別を無くす原因を創った空海を開祖とする真言密教は、大衆の願望欲望に真正面から答えた「現世利益を宗旨とする宗教」で一風変わった宗教であった。
 その空海が他宗との優劣を論じた判教「十住心論」、それを嵯峨天皇の勅命にて簡略化した「弁顕密二経論」から、宗教界の云う「宗教の正道の意味」を現代風にアレンジして見よう。彼空海の考え方は現代の宗教の鬼道的盲点と鬼道と正道の狭間にて蠢く、悪鬼神達等の心情までもかなり的確に指摘していると思われるからである。
 さて、彼、空海の十住心論の「十の住心」とは@異生羝羊心、A愚童持斎心、B嬰童無畏心、C唯薀無我心、D抜業因種心、E他縁大乗心、F覚心不生心、G一道無為心、H極無自性心、I秘密荘厳心・・・・の十の住心にて、@〜Iの推移は@を最下位(最低)の住心として、順次次第し、Iの住心を最高位として、「発心→修行→菩提→涅槃(悟り)」に至る過程を示すと共に、各住心に他宗を割り当て、その教理の境界説明し、自宗を最高位のIの秘密荘厳心とし、自宗が他宗より如何に優れているかを論評した空海の労作であった。又、最高の神仏等が慈悲を垂れ、涅槃(秘密荘厳心)→菩提→修業→発心(最下位)に光臨回向し給う姿を同時に示していると説明するのであつた。
 つまり、大衆の信心のあり方と「ゼロ的最高の神仏」の内証の世界を説明しながら、如何にして人々を近似解脱に導かんと苦心惨憺した空海の労作であり、又、この判教とは、この時代に於いては、他宗を論破しないと天皇から独立宗派とは認められない時代でもあった。又それは、稀に見る名著であり、後世の八宗綱要と共に二大名著とも言われているものであった。
 @の異生羝羊心とは、我々凡夫を畜生の中でも特に愚鈍で馬鹿の代名詞に良く使われる「羝羊=牡牝の未」に比喩している。有情(世に有るもの全て)の生まれるには、大別して、卵生・胎生・湿生・化生の四生がある。鳥類等は卵生、動物は胎生、虫類等は湿生、天界(神様)化生である。羊は勿論動物であるから胎生ではあるが、異生としたのは畜生の中でも特別な意味があるとの事なのかもしれない。
 さて、羊のように愚鈍にて、動物本能のままに行動し、悪行善行区別すら出来ず無邪気に欲望の欲するままに行動し、而も、一片の慙愧の念も悔悟の念を持つ事が無い「愚鈍で馬鹿な羊のように、何事も深く考える事も無く、常に本能的に行動し、その行動は他を思い遣る事もなく、無責任極まりなく、悔い改める事もなく、自制心すらなく、残忍な行動も平然と行える人間の本能中にも潜み持つ、冷酷・残忍・粗暴・・・等」の邪悪な心の住心比喩したものである。キリスト教(耶蘇教)が我々を「迷へる羊」に比喩したり、悪魔に牡羊の角があるとの例え等も、何かこの住心に通じる意味があり、何となく興味が注られるのである。
Aの愚童持斎心とは、前より少し進歩した住心であるが、愚童の愚は愚かで馬鹿正直の意味がある。又童とは刺青を入れられた奴隷や召使の意味から転じて童子(子供・少年少女)の意味である。持斎心の持斎とは精進努力する意味である。総じて、親の云うが侭に翻弄されている馬鹿な子供との意味を含めて「愚童が一生懸命に精進努力して、親の言付けや戒めを頑なに守ろうとする孝行心のある童子の意味で、儒教等の心情」に比喩し、我々凡夫が一般常識・道徳慣習、法等や儒教の三綱五常・仏教の五戒十善の教等を全面的に正しいと信じ込み、頑固一徹にてそれを最高規範として善人振る人々の心情を言う。五戒とは五悪の反対で殺生・邪淫・愉盗・妄語・飲酒等をしない人、五常の反対は不仁・不義・不礼・不智・不信等の無き人の事である。十善戒は沙彌(僧)の十戒とも云われ、不殺生・不愉盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香髪・不歌舞観聴・不坐高広大林・不非時食・不蓄金銀宝等の戒を守る人の事である。
Bの嬰童無畏心の「嬰童」とは、乳飲み子・赤ちゃん・嬰児・幼子等のことである。無畏とは、仏菩薩の具する徳の一つにて、智恵が内に有るので、大衆の中で法を説くも何も恐れない事の意から、何事にも恐れないとの意味である。総じて、母親の胸に懐かれて安心しきっている幼児の心情に比喩している。つまり、我々凡夫が母の如き神仏の絶対的加護を信じて疑う事すらしないで、唯ひたすらに妄信している状態を云う。それは恰も母に抱かれて無心に眠る乳飲み子のような住心で、神仏を有的に信じて精進努力すれば、必ず神仏の住む浄土・天国・仙界・・・等に転生出来るとする心情を言うのである。諸宗教の亜流やカルト的宗教等が言うところの「過去の宗教の妄想部分=教祖等を何の疑いも無く神仏として絶対視する思想」等を善悪の判断無く鵜呑みにして、誇張し、而も、他に対して「被害妄想的の宗教」等を云うのであり、カルト的であり、排他的でカリスマ性を持つ教祖等に洗脳されて、盲目的狂信的にそれを信奉する信者達への皮肉が込められているのである。此処では、教団としての組織運営等の方便を排除した信仰者としての、正しい「批評眼と選択肢」等が必要であると云う事だろう。
C唯蘊無我心の「蘊」とは無明に始まり、善根を害する三毒(貪瞋痴)にて、六根「眼・耳・鼻・舌・身・意」、六根の対境である「色・聴・香・味・触」等に対して、意識が妄執して行く過程を表すのが「蘊」の意味にて、派生する五蘊「色・受・想・行・識」のことである。縁起説=因縁生起説の根幹なった思想で、唯薀とは「五蘊の作用にて全ての妄執が起るとする教え」のみ信じて疑わない事を言う。無我心の無我とは、経に外道の執する実我、凡夫の妄情による我の空無なるを言うとある。即ち、人無我と法無我とがあり、人無我とは、五蘊の合成に過ぎない身は、霊妙なる常に一主宰の主体があるように思うが、何処にも主体と認識できるもの無しを言う。法無我とは、諸法は因縁の和合による存在だから、堅実、常住なる諸法の実体あること無しをと言うと説明する。つまり、凡夫である我々が「五蘊の呪縛から逃れようと、私心も我意もなく妄念もない無念無想の境地である無我心」を、悟りへの正道として苦行する者の住心であり、又その心情を言う。これは説経を聞いたり、経文を読んだりして、悟りを開こうと精進努力する「小乗の声聞乗の阿羅漢様達」を皮肉った言い方でもあり、現在の禅宗系類の不立文字を主旨して「目的意識なき座禅の有り方」等への皮肉なのかも知れない。
D抜業因種心の業因とは、悪業の因にて十二因縁を云い、種は無明の種子を指す。十二因縁にて無明の種子が抜けると言う、小乗の縁覚の住心である。つまり、悪種(悪因)からは悪因悪果、善種(善因)からは善因善果とする法則の「悪業の直接原因」となる「因(悪因の元(種子=種因)を取り除こうと精進努力する縁覚乗の心情を言うのである。物事が生じる場合の縁又は果に対して、結果を生起すべき親しき原因が因にて、因を資助する儀が縁にて、心識が外境を認知する意味でもある。併せて「因縁」と云うが、過去の煩悩の為に本心に明るさを失った状態が無明である。無明は煩悩妄執妄情等の出発点であり、根本原因であると云われ、それが拡大して行く過程を十二の段階に分けて説明したのが「十二因縁(縁起)」である。この十二因縁を説きし師の釈迦と、その機縁を重要視し悟らんとする「小乗の縁覚乗の羅漢様達」が、この空理(無常)を悟り、悪業の因を抜こうと懸命に苦行している独覚者の心情を揶揄したものであろう。仏教の空理とは、自我の実在を認める迷執と、我及び世界の構成要素の恆存性認める迷執の否定をいう。小乗教にては成実宗、大乗にては三論宗が空理を力説している。空理を般若心経の「色即是空」から類推すると、この世に形あるものは色=物体は、全て因縁にて存在するのであるから、全て仮の存在(仮和合)であり、恆存性がなく、因縁仮和合なのである。だとすると、全てのものの本性は、全て実有(真の存在)のものでなく「空性」となる。物質の本性は空であり、皆同一体性であるから「差別」がないこととなる。又「空即是色」とは、我々も万物も「空」であるから、今、我々が目に見える姿形や色彩等は皆刹那的だが、「差別の現象」の一部としても認識できるので、刹那的な存在するものとも言えるだろう・・・・・と。
E他縁大乗心の「他縁大乗」とは、全ての存在する法は、唯心の理を観じ、同体の大悲を起こして、衆生を救済すると説明している。而も、大乗の初門とあるから法相宗の事である。法相(唯識)宗は南都六宗の一つで、現在では聖徳宗とも言われ、今の法隆寺を指す。勿論、世親・無著の思想を継承する宗派である。唯識とは、一切の諸法は皆心識の転変で、実有なるものは心識のみと云う。識の転変とは、世親の唯識三十頌よれば「異熟・思量・了別」の三種にて、この三種は、阿頼耶識・思量識・第六識だから、元々一の本識があって、それが三種に転変し、これと同時に、これ等を能取とする所取が似現す・・・・と。つまり、唯識とは実在するのは心識だけで、全ては心識の現れであるとする説だが、それを受けて法相宗は「一切の法性(本性)は皆同一性ではあるが、現れる姿(法相)は、それを異にする・・」と云う、理を説き、全てが心の所変とし「自と他、怨敵と深遠(味方)も全て平等として、救済せんとする慈悲を持つ」・・・として努力する心情、つまり、他縁にて悟らんとする住心だから、他縁大乗心と言うのである。開目抄に「法相の唯心、真言の五倫観も、実には叶うべし」・・・と揶揄されるように、理想論に偏重する帰来があったようである。
F覚心不生心とは、先の法相宗(唯識)の理念を捨て、無相(空理)の理を悟ろうとする三論宗の心情を言う。三論宗とは、竜樹(ナーガルジュナー)の中観論四巻「青目・羅什訳」十二門論一巻(羅什訳)、竜樹の弟子提婆(デーバ)の百論(婆藪・羅什訳)等のことで、三論宗とはこの三論を所依の聖典として、その経論を訳した羅什を宗祖とする宗派であり、これ等の論に説く哲理を根幹としているのが、三論宗(南都六宗の一つ、現在では清水寺のみ)である。覚心の覚とは菩提又は道で、涅槃の理を証(さと)される果上の智恵を言う。又、覚には悪事を察知する覚察と、真理を開悟する覚悟があり、心・心所の総称にて、対境を覚知すると定義している。覚心とは本覚の妙心を云い、一心の真性は、本来迷妄を離れているので覚心というと定義する。つまり、実在するのは我々の心識だけであり、その心識の最奥底にある潜在意識の更に最奧にある第八識(或いは十識)阿頼耶識(蔵識)にて覚知出来ると云う法相の悟りの境地を、覚心と表現した法相宗(唯識)系の主張を完全に否定し、諸法一切皆空とし、全ての存在・思考をも否定尽くした世界即ち「絶対空=真空、我法二空」の世界こそ悟りの世界である・・・とする三論宗の心情である。不生心とは阿羅漢の訳とも言われ、三界五趣に生じない事、生死の苦果が再び生じることが無いとの意味と、転じて、本来不生不滅を玩味する「不生=本不生=常恒」として真理を表現したものと云えるが、空海からすれば、未だ絶無に拘りがあるとの心境にて、揶揄するところが充分にあり、真の悟りの境地では無いと表現しているのである。又、神仏がこの世に姿を表す事や弥勒菩薩の再来等を「下生・廻向・光臨・来臨・来迎・・・」と云うことがあるが、この住心からは、これ等の事を窺い知る事は出来ないので「不生心」とも表現したとも考えられるのである。
G一道無為心とは、如実一道心・如実知自心・空性無境心・一如本淨心・・とも言われ、本来清浄なる実相の理にして、行者が三劫を超えて、第二劫にて「万有は唯心にして、心外に別法なし」と知るが、真如無為の中に埋没する事を畏れて、因縁の生滅と法界の不生滅とが互いに遭い離れ無い事を理解し、有為無為の別執を離れる事を主張する天台宗(京都、比叡山延暦寺)の住心を比喩したものである。天台宗の別名は止観乗とも言われる。止観とは、分別を離れて心を一境におく事を止と云い、正智を起こして分明に諸法を照見するのを観と云うとあり、止観とは「心に雑念の湧くのを抑え、止めて、真理を悟る」ことの意で、声門乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の何れも真実の道(一道(大乗は菩薩乗))としている事をも比喩している。又、無為とは、因縁の作用なく生住異滅の転変なきを言うとあり、釈滅無為・真如無為とも言い、聖智所証の理と定義している。つまり、真の仏教の解脱・万事の根本である無形無心なる境地・虚無・・・等にも通じる境地なので無為と表現したと思われる。唯識の阿羅耶縁起を如来蔵縁起に変えて「法華経」等を所依の経典とし、天台止観にて有為無為の別執を離れて、無為を証得せんとする天台宗の住心を揶揄したものである。
 H極無自性心の極無の極とは、第八の住心の一道無為心を言い、所証の空理を愛して至極としたが、密仏の驚覚に合いて、初めて第八の住心は未だ至極ではなく、自性なしと知るという。この第九の住心は顕教(密教以外の教)の至極にて、真如隋縁・不守自性の理を説くので極無であり、華厳宗の(南都六宗の一・現在の東大寺系)住心であり、第十の秘密荘厳心に入る中間だから極無自性心と説明し、比喩している。つまり、声門・縁覚・菩薩の三乗は結局一乗に帰するとの考えから、極理(極無)を「因分、不可説、果分」にて説明している。極理とは勿論「0的」なる最高なる神仏の自内証の境界を言う。因分とは「縁起因分」のの略にて、仏陀の証悟の世界(仏陀の明示した悟りの世界)は仏々自知の法(仏の所得された智恵(波羅蜜))のことであるが、因(修行中)に説いても、それは果名(仏の智恵の意味で)に於いては説く事が出来ないので「不可説」と言える。この果分を因人(修行すれば仏となれる種子、悟りを開く事が出来る要素を有する者)の機縁に従い小分けして説けば、果分(仏の証悟の世界、自内証の世界)を説く(可説)ことが出来るとする教理を持つ華厳経の住心を云うのであるが、それでは悟りの機縁を持つ者を見分ける方法や選択肢如何するかと云う事が明示されていないので、それを揶揄したものである。
 I秘密荘厳心とは、如来秘密の三業を以って、衆生本具の功徳を開顕し、荘厳する心にて、行者が自心の源底を覚知して、六大縁起・四種曼荼羅・三密の美徳を証悟する事を言う、空海自ら創設した真言宗の住心(平安の二大宗派の一つ、京都の東寺、和歌山の高野山等を中心)の事なので、最上位に置くのは当然の事である。彼の言う「秘密」とは、衆生秘密・如来秘密の事で、例えば、如来の身・口・意は三密にて果分、我々凡夫の身・口・意はは三業にて因分と言うように、如来秘密の三業を以って因分を選び簡略して、果分の境界へと衆生本具の無量の功徳を開発し、荘厳していく心覚の状態を説くのを云うとある。つまり、真言行者が如来秘密の六大・四曼、三密にて、即証悟出来る果分を説くのが、我が真言宗と云うのである。仮に、仏教の「空理」を我々の肉体的に連なる煩悩(業)からの離脱にあると云うなら、唯識は心(魂)の固執からの浄化にその目的があると言えるだろう。空海の説く密教は、神仏の霊性妙力(最高の人格神=宇宙の活力)等を認めて、我々との不ニなる心身の業による束縛から同時に解放される教法を説く処に、その特異性が見られるのである。
 さて、密教の事を天台宗の台密・真言宗の東密を含めて「秘密乗」と云うが、金剛頂経系に傾く真言密教(東密)を、空海自ら「秘密金剛乗」と呼称したのは、何だか空海らしく愉快な気持ちがする。
 以上が、空海の十住心論・弁顕密二教論等の十住心に私考を含めた解説である。結論としては如何に宗教の正道が希求し難く、且つ生半可な考えでは理解し難いかを知らされた思いで一杯である。
 今迄述べた事少し整理して置こう。
(一)宗教は何故必要か。
 答えは、人智を越えた不可視不可知な妙力・霊力を持つ者への畏怖と畏敬と、その加護を期待し、それ等を次第に我々は、神仏と呼ぶようになつた。宗教や哲学等の説く神仏は、最終的には「零であり、空であり、極無・・・等」と表現される宇宙の根源=宇宙の最高精神=宇宙意思・・・等と呼ばれる真理そのものであった。 だが、しかし、我々凡人には、神仏に対して「長寿・息災・富貴円満・五穀豊饒・悪魔降伏・怨敵退散・・・・」等のあらゆる現世利益を希求するのであった。それは又、他との同一化でもあり、共同生活の肯定であり、人間としての安寧を求める為の心の拠所でもあった。人間社会の全て「生活・文化・政治・経済・倫理・哲学・科学・・・・」等にとっても神仏は仮定的な存在だが、ゼロと同じく必要不可欠な存在であった。だが、人間の根本的、本質的、本能的な欲求や感情、悩み・・・等に付随する諸問題は、そう簡単に解決されると言う代物ではなく、それこそ神のみぞ知り給うと云うものであった。
 此処に於いて、我々は神仏が「存在して欲しいとの願望」と、「存在している事を承認したいとの願望」等から、何となく神仏の存在を受け入れて行ったのである。ある面では、無神論的逃避的諦観的浮遊的神秘的で複雑な神仏の存在をも肯定しているのも現実であった。それが故に、それ等の思考を否定する為には、神仏とは、不可知不可視不可思議不可解不可怪な「存在もなく、無でもない、ゼロ的」・・・等と、宗教・・・等が表現した所以かもしれない。
(二)宗教は我々の「魂=心・霊性」等の存在を認めているのか。
 答えは、神道系・道教系・儒教系・陰陽道系・仏教密教系・・・・等の一部は、我々の魂(霊性等)も神々の魂(霊性等)も共にその存在を認めていたようである。又、神々の意志にての輪廻転生や甦生する神魂、又、我々の魂等も死後の輪廻転生や再生等も認め、更に、己の意志にてこの世に執着し留まり、浮遊する幽霊や怨霊等も認めていたようである。彼等は一設には中有(満中陰に至る期間、或いは成仏する期間)の期間は、一瞬だが神々と同様の神通力や超能力が得られるとも云われている。
 我々の死後、魂(霊性)等の存在については異論も多いが、概して、霊性的存在として認めると云うのが一般的見解のようだ。魂そのものの存在論では「認める・認めない」の二つの理論にて対立し、未だに決着がついていないのが現実である。何れにしろ、準拠となる経典も少なく、認める側の経典にも偽経が多く判然としない。とにかく、俗信仰的に霊性=魂等と思われ、霊的存在・霊性的存在を容認したとする考えにて存在すると言うのが一般的となつたようだ。
 死後我々の魂は二分割し、一方は輪廻転生無き天界に、他方は業に煉縛され地上に留まり輪廻転生を繰り返すと云うのが、インドや中国の宗教思想(梵我・魂魄)の大半だが、日本ではこのような区別はかなり大雑把で曖昧であり、魂=霊性=精神・・・等であり、それ等そのものが個性を持ち輪廻するとの解釈のようである。然し、肉体や心に悪霊等が取り憑くとの考えがあり、霊観師等の霊視や神官巫女の霊媒等、更には、彼等による禊御祓等の対象となる霊は、大半が「怨霊や邪霊・生霊や死霊等の悪霊」等の類となるが、この類の霊は、言葉を変えると、魂の悪性化であり、本体ではなくその一部が、変身分身したものであるとも言えるから厄介である。
 日本の怨霊は概して幽霊であり、その他の魔性のものは化物であり、鬼であり悪鬼神、邪神等となったが、その鬼の姿容の起源は、既知の通り、中国の呉道子が鬼門の姿(艮、丑寅)を描きし創造物である。それは西洋の牡羊の角を持つ悪魔と類似し、而も、東洋の牛(丑)の角を持つ悪魔にも類似しており、我々祖先の霊視能力や想像力の豊かさには恐れ居るばかりである。 さて、仏教は、死後の魂の存在は一方では「因縁仮和合」にて存在を否定するが、他方では満中陰等を認め、覚性にも霊性や霊格の差を認め、地極、極楽・輪廻転生・・・・等をも方便としながらも、認めざるを得ないと言う不合理性があつた。
 勿論、覚性を妨げるものが、煩悩であり、邪性、悪霊であり、悪魔・・・等とはしているが、仏教の終局目標は悉皆成仏であり、全てに仏性を具有するが、仏性の覚性の開発状態は識の世界でもあり、不可視不可知なのである。つまり、真の解脱は我々からすれば理論上、観念上等の世界となる事から、又、輪廻にも途方も無い時間を用意し、霊性や霊格等の差別的存在がある等と云い、結果として暗黙の了解を得て、霊的存在を認めてしまったようである。故に、佛教は「霊性の霊格としの作用(残存思念等としてか)」は存在するが、魂や幽霊の存在等を認めないと言う、ややこしい理論が正しい表現としているようだ。それは又、チベット密教の「死者の書」では、中有を死後四十九日間として、その後も輪廻転生する魂が語られており、日本の源信の「往生要集」等にも、直接表現を避けながらも、随所に魂の輪廻転生、甦生、再生等が語られている事すらからも覗える。
 現代日本の霊供養は50年〜60年に亘る手厚い供養が一般的であり、追善供養等と称されている。追善供養とは、我々子孫が死者に代わり積善すれば、死者の魂は何れの時にか、仏界、天界(極楽や天国等)に生まれ変れるとか、神仏等になれるとか・・・等を信じながら、手厚く供養し、念じ、それを期待して行う施行である。死者の書等が云うには、四十九日にて一応一段階の転生を終えると断言しているのに対して、日本の宗教は、更に霊性の霊格を高める為に、更なる供養を必要するとか、子孫が死者に代わって徳を積む事が、自分の死後にも影響するとか、子孫に対する先祖の守護が強まる等とか・・・等を大義名分として、人間の寿命の約三分の二に当る追善供養をする事を一応義務付けしている。それにて、本当に、我々先祖の死後の魂が仏になれるか、仏界等生まれ変われるかは不明だが、先祖を敬い、家族を大切にすると言う現代人の忘れかけた心には、先祖への報恩と謝恩の芽生えと僅かな拠所とはなるだろう。
 反面、霊性=魂と言う風土的暗黙の了解は、一部の悪意ある神官や僧侶達には実に都合の良く、詐欺商法紛いの金儲けとして利用しているが、それを知りながら、騙された振りをして供養する多くの日本人がおり、これも先祖の供養として我慢する日本人の真の優しさなのかもしれない。
 遺伝学では、我々の意志や心(利己的遺伝子selfish)は、我々の野望や健康等の一切の感情等を含めて遺伝子に組み込まれ、子々孫々の中で、遺伝子の一部となって受け継がれ、発達し継続すると断言しているのも事実なのである。
 動物行動学者日高敏隆氏の往復エッセー(産経新聞 20003年/11月)によれば、「利己性を持っていなかったら、何億年もの昔に地球上に現れたか弱い微々たる生物は、厳しい外界条件の中で到底生き残ってはこれなかったろう。少しでも多くの自分のコピーを残したいと「願う」遺伝子達は、あれやこれやの「試行錯誤」を繰り返しながら、少しでも多くの子孫を残せるように様々な生物を進化させる事になった。われわれ人間上に現れたのもそのお陰だった。 中略  自分の子孫を残す為には仲間との競争も必要だが、協力もまた必要である。 中略  病気と戦う事が不可欠であった。そのためにオスとメスという「性」を作って、異性の間で遺伝子の混ぜ合わせが起らないと子孫が出来ないようにした。 中略 メスとオスが出来たら、異性が出会わねばなら無い。そこでオスとメスは互いに求め合うようになつた。中略 男と女のどうにもならない感情もこうして生まれた。人間はそれを愛とか恋とか言う。それは利己的遺伝子の戦略だった・・・・・・」と。
 (三)神仏は誰のものか。果たして、存在するのか。
 答えは「存在も無く、無でも無い、人智を越えた不可視不可知、真理そのもの、ゼロ、宇宙意志、最高精神、絶対真(神)・・・」等と呼べるものを神仏というのであるから、生る事も死す事もなく常恒にて、極小で極大、大我でもあり自我でもあり、善であり悪で無く、多様性でもあり一様性でもある、況して、それ等の中間でもない・・・・等でも有るし又無いとも云えるなり、とにかく、霊性・意志・意識・妙力・真理そのもの・・等々と云える無有の零的存在として、正体不明で、諸宗教には関係無く、我々の意志とも無関係でありながら我々の意志等の全てを支配し、主宰し、統率している強大な力、エネルギー、光、意識波・・・・等として、ヒシヒシと彼の思念と重圧感を無意識にて感じ注されておるが現実である。諸学者達も一応に理論的にはそのような神仏的な存在がないと説明できない事も多く、又、その存在がないと結論づけると納得できない事柄が強大な壁となり、幾重にも立ち塞がり、学問の進退も窮まり、停滞してしまうことも確かだと説明する。それは換言すれば、我々の思考を遥かに超えた存在と言うより、大いなる新たな思考概念が必要と言う事であり、神仏(X)と言う(X=0)と言うべき思考概念を考えない限り解けない謎となって、諸学者達を悩まし続けていると云う事で、此処で云う神仏とは、宗教家達の云う神仏像を僅かに含むが、むしろそれを超えた我々全てに普遍的真理としての存在であり、普遍的神仏を云うのである。
 宗教家達が感得した「自内証の世界の神仏」の内で、朱子が説く「理を根源として、陰陽をその現象とする。」と云う「理」と表現される根源的理と慈悲と智恵を完全具足する理仏からその徳を慈悲と智恵に分けて表現される神仏とは確かに類似しているが、彼等が説く「差別と平等・陰と陽・理と智・・・」等との対立的概念や単純なバランス論等の混在する神仏像でない事だけは確かなようであった。
 少し余談となるが、現代にも妖精達と呼ばれるウイリアムス症候(脳の遺伝子が一部欠落した人)人達である。彼等は神様の贈り物としての音楽的才能に秀でており、音符も字も殆ど読めなくてもその歌の心を知りそれを歌い楽器を奏でると言う。そして、何時もニコニコし、喜怒哀楽を体で感じて分かち合いながら、人々を癒してくれるらしい。彼等の才能はその他には、人の顔を記憶する特殊な能力があり、如何に変装しようと見分けられるという。但し、その他の才能は通常の人より劣っているので、大抵は虐められっ子として育つのが通例らしい。その姿容は何故か白雪姫等に出てくる絵本の小人の妖精達と非常に良く似ているのである。話は変わるが、生まれ付き全盲の人達や幼くして全盲となりし人達は、触れずしてその対象物の材質や色彩、店のあり様、男女の年齢の区別、四季の色彩感・・・等通常の目明きの人と殆ど変わり無く把捉できると言う才能を有する。これ等を我々は如何に思考したらよいのであろうか。
 さて、本論に戻り、結論としては、煩悩や怨敵・害敵や外敵・・・等を方便とは云え悪魔と断じて呪詛し、対立的概念やバランス論にて言い訳して説く宗教の神仏は、宗教の神仏ではあるが、我々の神仏では無いと言うことである。又、絶対愛・・・等と称し、本性論から平等的概念等を主張する宗教の神仏も、同じく我々の神仏では無い事になる。だが、真理そのもの、理そのもの、宇宙意志等として呼称される神仏であり、学問的にもある程度裏付けられ、歴史的に淘汰された宗教の説く神仏は、我々と宗教、否全てに具現し普遍であり、共有する神仏と云えない事も無いかも知れない。
 その意味では、日本の空海が神仏を「宇宙の活力源・万物の根源を主宰する絶対意志・最高の人格神・光そのもの・・・」等と想定し、それを大日如来(理知不ニ法身)と論じた事は革新的と言えるだろう。又、彼は擬似解脱・近似解脱だが、科学的哲学的成仏等も有り得ると説き、それを理具成仏とし、顕徳成仏(即身成佛)の次に位置付けするのにも一理あると言えそうである。
 (四)死すとはなにか(六道輪廻と輪廻転生の始まり)。
 答え、医学的には脳死と心臓死を以って完全死と見なされるらしいが、それ等の肉体的死が、果たして精神死であるかは異論も多い。仏教か全ては空と云いながら、方便として、魂の六道輪廻や他界での輪廻転生を説くようなもので、臨死体験者等の話しに基づき死後の世界を語るのと良く似たものと想像出来る。仏教の説く六道(五道・道=趣)輪廻とは、永遠に輪廻することが無い仏如来様の佛国土の甦生を除き、天道(神々や天人の住む世界・天上界)・人道(人間界)・修羅道(阿修羅や鬼の棲む世界・闘争の世界)・地獄界(餓鬼や畜生の棲む世界)等々を、我々死後の魂、否、霊性が「三途の川」渡り、閻魔大王の閻魔帳に記載されて居る生前の(加護の罪状)罪過の軽重にて審判を受けて、六道の何処に行くかが一応決定されると言う。だが、その何れも安住の地ではなく、その後の精進如何にて、六道の一段上の界へと甦生すると言うことである。これ等の様相も奇妙なほど臨死体験者の話と符合しているのも妙である。又、遺された子孫達も死者(先祖の霊)に代わり供養する事を勧め、それは、縁ある死者の魂が輪廻転生を繰り返して、最後に佛果を成就するまで続ける義務を課せられ、最低でも49日間、最澄50年〜60年の供養と祭祀をするのが日本の先祖供養の一般的慣習となっている。
 それはともかく、阿修羅とは、闘争する者の意味で、一般に金剛力士や仁王様像に似た尊像等を想像するが、大抵は顔の前面は柔和な菩薩面であり、裏面が憤怒の鬼面である。始めは善なる神様で有ったが後に悪鬼神・善鬼神等とも云われ、四方を守護する善鬼神の仁王様達を除けば、須弥山の大海底の底、地獄の一歩手前に、彼等阿修羅の住む世界があり、常に闘争や殺戮を繰り返している世界で、別名鬼界とも言われている。密教の曼荼羅では一番外側の外金剛部に配されている。 又、鬼道(鬼界鬼趣)とは、三悪種の内の鬼趣とも言われ餓鬼・夜叉・羅刹界等にいる頭領格の者や親分格の者等の事で、超人的自在力を持ち、悪業(行)を欲しい侭にする悪鬼神達と、善法を守護する善鬼神達が共存して住む世界であると云う世界である。
 さて、仏教が天道・人道・阿修羅道(鬼道)等の三道(界)に他宗他教の神々を配属したのは既知の事実であるが、善鬼神とは、自宗の仏達に教化されて護法身等となつた悪鬼神や邪神等の神々であり、教化されていない神々が悪鬼神や邪神等であった。為に、悪鬼神と云えども例外も多く、天界に特設待遇した魔王様も悪鬼神であり、仏様達の使者として、密教が教令輪身として満陀羅に特設した明王部の主尊達の殆どは夜叉王、夜叉明王様等なので有った。明王様とは、智力等にて魔性の者を砕破する徳ある神様との意味で、仏像にはその智力(徳)等を忿怒の形相や剣や金剛石(ダイヤモンド)、金剛杵等にて表現している。注目すべきは明王様の大部分は概して他宗の主尊・主要神であることである。その為か、密教では、この明王様は真性そのもの(未来は如来様との約定)である覚王(大日如来)の教令輪身にて(教えを伝達する使者)にて、教令に従わない諸々の諸神や諸悪魔等を調伏降伏する大忿怒神とも、破壊殺戮し、而も、甦生再生等も可能な大再生(創造)神であるとも説明しているのである。真偽は不詳だが密教佛教が宗派宗旨の存続を企図した信仰以外の要素が加味されているとも解釈出来るのであった。
 さて、空海が「判教」にて、十住心の最下位に置いた「異生羝羊心」は、動物本能のままに行動する一見、素朴で、粗野で、無教養で自然児とも言える人間達であり、キリスト教の言う「迷える子羊達」でもあったのである。我々の脳には、貪欲と愛欲、好き嫌いややる気等の感情が同じ場所に回路に組み込まれ、それ等が本能的となって感情表現がなされていると云う。
 だとすると、羊のような動物本能的生き方も或る面では自然の摂理に即応した生き方ともなるが、野放しにすれば、逆に人間が人間としての住環境そのものの破壊に繋がる事も否定できない。
 歴史的には何故か、一神教では対立を生み、多神教では曖昧さを生むと言う、宗教の中で、もう一つ正しい宗教的思想と思われるものとしては、汎神論や本地垂迹説的な多即一、一即多の理論がある宗教が選択出来そうだが、此処では対立も曖昧さも半減するが、信念としては何故か、判然としない余韻が残る。
 日本の「襖や障子」等はその住環境を象徴し、自然と人間、個と集団、共存共栄を象徴し、日本の自然と住環境等の中で孤立無援な生き方の難解さを教え、利己主義と個人主義の境をさ迷い続けて、次第に社会正義としての習俗・慣習・道徳・法・信義を時代時代に即応しながら成立させ、日本の「武士道としての大和魂」等を作り上げ、世界に通じる卓見ある教養人まで作り上げた。
 だが他方、第二次世界大戦後は何故か自虐史感を持った教養人が台頭し、我国の歴史を断絶させ、それを更に、継承する輩も多く出現した。その子孫は、親に似ぬ子は鬼児との雰囲気を醸し出していた。
 それが、空海の言う第二の住心の「愚童持斎心」でもあった。それは又、その時代における法であり道徳律であり、管理登用の必修科目であつた「孔子の儒教」等を批判したものであった。空海のこの指摘は現代にも通じるものがあり、それは又、階級社会・氏族社会・管理社会等への反発と挑戦でもあった。儒教の「小孝」を捨てて、仏教の「大孝」を選んで奈良朝〜平安朝に生きた空海の心情が伺えるのであった。
 第三の住心「嬰童無為心」では、無為自然を尊び、俗世間を忌み、長寿と心の安寧を唯ひたすらに桃源郷・仙界・天国(天界)・極楽・・・等と称せられる処に遊遊するか、生まれ変わる事を願い自戒精進努力する道教・神道・耶蘇教・・・等の他力本願を批判し、それは何の疑いも無く母を信じ、母の懐に一時の安らぎを得て抱かれ、スヤスヤ眠る無邪気で可愛い赤ん坊の心情と同じだと指摘する。恰も、母なる海に翻弄されている「舵の無い帆船」と同じであり、その境界は、個の意志や希望、願いは当然無視され、絶対神に購う事は不可能であり、主君・独裁者・専制君主等の命ずるままの世界であった。何故ならそれは、人間や生物の持つ「生まれたものは必ず死す」との理のへの真っ向からの挑戦であり、永遠なる寿命・不老不死等を獲て、生身にて天界に遊ぶ・・・等を最終目的とする彼等の心情は理解出来ないことも無いが、変易・無常の理に反する。又、道教が云うように、真理や永劫なるものが「空間と時間の狭間」に存在すると言うのなら、それは刹那的即応であって、タイムトンネル的なもので、一瞬、刹那的時間の超越であり、真人(仙人)と言えども、刹那的に存在は可能としても、常住には存在し得ない境界なのである。
 だとすると、例えそれが、存在も無く、無でも無い、超次元への即応であっても、真の不老不死や生まれ変ることがない天界等は、有り得ない事になる。何故ならそれは、概して、最高神を一神とする一神教的世界であり、その信奉者や行者、道士達等が生身のままで即最高神になる事は不可能だからである。
 第四唯薀無我心と第五抜業因種心の住心は、何れも仏教の小乗と云われる声門乗と縁覚乗の羅漢様達を批判している。仏教の教や遺戒・八正道等を守り、四諦・十二因縁の空理を悟り、悪業の因や妄執を取り除かんと、独り懸命に苦行し、努力精進をしている羅漢様(釈迦の弟子・苦行僧)の事である。
 或る意味では非常に尊敬に値する僧達である。それは釈迦が修行時代に行ったインドの仙行(バラモン教等)部分を継承しているとも言われ、先ず自らが悟り得る事を至上の目的とし、人々(大衆)と共に仏道を歩む事(菩薩道)を軽視する傾向が有った為に、器の小さい乗物、小乗と後の大乗派(大衆部から発達)から批判された仏教徒の呼称である。
 第六他縁大乗心と第七覚心不生心の住心は、初期大乗の創始者である世親・無著兄弟の唯識をそのまま継承する法相宗と、龍樹・提婆の空理論をそのまま継承する三論宗を批判したものである。前者は「法相(差別=唯心)の中に平等(仏性)を覚知」し、後者は「無相(空理)の中に差別(関係性=縁起=相依相関=作用)を感知」したと云う。だが、それ等の何れも「悟りし者=覚者」になる為の手段であり、真理そのもの、仏陀の覚証への帰一であり、感応であり、合一等でしかなかった。つまり、真の解脱と云うには些か疑問点が残るということなのであった。
 余談となるが、現代の科学では、人間を除く動物の心臓の脈拍数と寿命の関係を明らかにしている。一般の極普通の自然の状況下では、各種の動物が心臓の脈拍数にて夫々固有の時間を持ち、夫々の寿命の長短を意識することなく寿命を全うしており、それは脈拍数にて平等であると証明し、自然の摂理の絶妙性を検証している。だが、この意味で例外なのは人間で、豊富な食べ物と科学医学の発達にて「人間の寿命は動物の象に匹敵するほどの長寿時代を実現している。
 嘗って、相対性理論の創始者アィンシュタインは「石は石であり、石として在り続けたいと云う保持本能(執着心=煩悩か)が、万物の全てに存在すると云う。我々が何気なく石を投げたいと云う行為の中にも、石自身の遠くに行きたい、投げられたい等の願望のようなものが作用しているとも説明している。こうして、全ての森羅万象は「あるがまま」に存在し、石は石として有り続けたいと云う、頑なな「我性・特性・保持・作意・・・等」があって、全てに存在し、その特性を維持させる絶妙性が自然の摂理にあると云うのである。
 我々の何気ない行為にも、他からの色々の意志的なものが、我々の意志、意識、無意志。無意識に無関係と思われるものであっても、夫々の持つ「我性・保持本能・・・」等が、本能的願望や摂理的欲求等と合わさり、更に、それ等の作意が複雑に絡む合い、我々の潜在意識に作用し、我々の行動の選択肢に働きかけ、我々の一行為を成立していると言うのである。まるで仏教の云う「一即多、多即一」的概念である。
 こうなってくると、人間が「悟りを希求する行為、神や仏を信仰する行為、永遠に生きたいと願う行為、欲望を満たす行為、悪事等を為す行為・・・・等」も、遥か昔にインプットされたする意と同次元のものであり、周りとのの関係性(因縁生起=縁起)にてなり立つ事となる。つまり、我々の遺伝子の奥底に、ユングの言う古井戸の魂に、神仏と言える何者かが組み込んだものと言えそうなものも多々あるが、そうとも断定できない例外的な事もあるのが又、人間なのかも知れないと云う事である。この意味では、我々は正に仏教の言うように「因縁仮和合であり、因縁生起であり、依多起生であり、無我であり、無自性・・・」等であると言うのが正しいのかもしれない。
 さて、空海は第八の住心一道無為心を天台宗とし、天台止観にては、声門・縁覚・菩薩乗の三乗が何れも真実の道であると説明し、何れも一乗に通ずるとするのだが、これ迄に述べて来た第一〜第八の住心は何れも「因分」を説くものであり、つまり、仏や神になる為の条件であり、覚性の開発であつたから、極理=真理そのものは隠蔽されていると説明する。
 第九の住心極無四生心の極無とは、至極の意味にて、真如随縁・不守の理を説くので極無自性心と云う。極理を因分、不可説と果分に分けて説くのが、華厳宗の華厳経の華蔵世界だと云うのである。つまり、第八の住心は今だ至極せず自性なしと知り、転じて、進趣の心が生じた住心にて、第十の住心に入る中間の住心だと説明している。
 最後の第十の秘密荘厳心は、「因分を選び、果分の境界のみを説く」のが真言密教だと云うのであるが、説明に具体性が少々欠ける為に容易に理解する事が困難なことが残念でである。だが、真言宗は大日経・金剛頂経を所依の経典としてはいるが、殆ど大日如来を本尊として祭祀することも、大日経も金剛頂経も建前にて、何れも日々祭祀し読経することは殆どない。日々の読経は「理趣経」を読呪し、他の本尊を祭祀する事から、宗の主旨は「全てが大日如来の化身であり、大欲清浄なること菩薩位なり」と思われる。
 俗な言い方では「良き苦労人程、人の痛みも良く解る」とも理解されるが、要は、大いなる放棄にて、大いなる善願(大欲)にて、発想転換を試みたもので、大欲とは、真の善神佛になってやる、真の仏陀になる、真の解脱を得る・・・・・等の度大実現不可能な大望を抱く事にて、他の小さな煩悩(執着)等も打ち消す事が可能であるとの意味だろう。又、殆どの執着から開放された淨心にて、更に更なる飛躍への発想転換が可能となるとの事だろう。
 果分なる仏の世界から見ると、我々の無知が生んだ無明(根源的な執着や煩悩)、それから派生して無限の広がりを欲求して止まない欲望、その行為(業)の結果は、我々の死後の魂にまで影響し・輪廻転生の主体となり、邪悪な者が集う魔窟(鬼道)等の世界を彷徨し続けなければならないと言うが、然し、我々の魂(霊性)は最終的(何劫年後)には、各種の輪廻が過酷な修行過程であったとしても、それはその人に応じ罰を神仏に科せられたものであり、神仏の加持にて神格化、覚性(善性)化を促されているものであり、決して、我々の魂を堕落させた侭では無いと云う。其処では、我々の魂(霊性)が真の悔悟と揺ぎ無い神仏に対する報恩の念を保持する重要性を、神仏に徹底的に叩き込まれ、我々を修養させる誓願を持つ神仏の慈悲の裏世界であるとも言い換えられ、魔窟に棲む者や鬼道を歩む者までも我々の魂(霊性)と同様にこれ等の神仏に依って修養(修行)させられているのであり、最後には悉皆成仏だから、それを信じて善道を進めば安寧だと云うのである。
 このように考えると、地球規模での時間や空間を無視すれば、大きな野望を持つ者ほど悟りへの完成度は大きく、悩み多きものほど遅速を無視すれば、より神仏の世界に近いこととなり、感応の度合い等も一般の人より高いと言えるのであり、最後には、最終的には、大日如来の加持にて、全てが浄化され、0なる大日如来に帰一出来ると云うことだろう。これが、煩悩即菩提、大欲清浄菩薩位等の意味だが、是だけの説明では大いなる矛盾と誤解が残るのである。如来と行者と信者との意気投合が必要だからである。
 古事記に記載される日本の国土は、四季があり、割合に温暖で、「高天原」と呼ばれ、又、豊葦原の瑞穂国とも呼ばれ、水の国、柔らか土に覆われて葦が至る処に繁茂しており、人間もその大地から生えた草であり、青人草と呼ばれたのである。その風土にて育つ人々は、寛容と曖昧性を持ち、多神教(八百万の神々)を信ずる世界であった。
 そこで彼空海は、煩悩や欲望が清浄化する条件として、唯識が説く習癖を三密(身口意)を用いて形式化し、善なる習癖を身に付けてさせてから、魂(霊性)に方向性を指向さして、そのようにすれば如来の加持力・法界力等が得られると表明し、更に、神仏の世界は清浄にして荘厳された世界であると観想させ、是にて、如来の加持力にて、我々の最終目的とする完全無欠なる仏果(神仏の世界・大日如来の加持世界)が獲られると説いたのである。何故なら、空海の世界は、特別仕立ての理智不ニ法身(報身的)としての法身説法の世界であった。彼の門下生の覚鑁は、加持法身(報身=理知不ニ法身)の世界(不動明王との一体化)にて新義真言宗を開いた。又、門下生寛朝の開いた廣澤流では愛染王を金胎不ニの大日如来(理智不ニ法身)と同一として祭祀しているのである。
 これは空海が仏果の最終目的=我々の魂(霊性)と肉体(エネルギー体か)等を大日如来であるとし、大日如来を万物の根源そのもの・最高の人格神・宇宙の霊性の活力源・霊性エネルギーそのもの等と覚知して、更に仏陀(釈迦)の覚証迄も・・・等を理知不ニ法身=金胎不ニの大日如来として論じた処に、空海の魅力と特色があり、日本人の寛容と曖昧と多神教を満足さす宗教(密教)の設立であった。
 それは又、偽の解脱ではなく、近似解脱の即証を我々に教授したのであった。それでも我々が近似解脱と言う擬似体験を得るにしろ、死を覚悟して擬似生命体となれればならないのであり、それは常人には不可能と言うべき超大難事な事なのであった。
 さて、この章では、主に空海の判教から、宗教の仏身(神)論を論及してきた。そしてその結果、真の解脱を得た尊者達は、此処でも、伝説上の釈迦様か、伝説上の神仏(仏如来)等しか、解脱した者は居なかったとの結論が導きだされる結果となった。
 その他は全て空海の言うように、擬似解脱の擬似体験・擬似感応・擬似合一・・・・等であって、本物ではない。その擬似でも我々にとっては不可能に近い事を思い知らされたのである。それは聖人や開祖等と言われた人達の中でもほんの数人で、長い歴史の中でもほんの人握りの人達であった。
 此処に宗教の「正気と瘴気・正常と異常・平静と狂気」等のように、宗教には、諸刃の剣的二面性なる要素が存在していると知るべきだろう。