(ニ)民衆の正道への希求
故和辻哲郎博士はその著「風土」にて西洋と東洋各々の地域による気候風土の違いやその特異性から「生活環境・文化・人間社会・人間性に及ぼす影響・・・等」を論及したことは前述の通である。彼は地理学で言うところ「処変われば品変わる」を風土的側面から「性格と文化と生活環境」等への影響を論及して、四季が明確でモンスーン地帯の東洋における日本の宗教は理想社会を目的とした合理主義となり、四季の変化が少なく気候の変化が割合穏やかな西洋の宗教は宗教の世界に不合理を持ち込んでいるとして対比し論証している。又、彼は空理論を基礎とした個人個人の僅かな感覚体感の差異や日本の関東関西の風土の違い等から「人間の学としての実践倫理」をも提唱している。彼は神仏の世界では矛盾が赦されないというのが東洋や東洋日本の諸宗教であると主張している。それは温帯モンスーンと四季折々の変化と明日の天気すら予測が困難な気候風土と変化の激しい環境が有り、それとの適応や関係性の中から我々の現実社会は不合理で矛盾だらけが当前であり、戸外ではなく、家の中で家族を中心とした独自な生活様式、心情、慣習等を構築して行ったと洞察した。そして小林一茶の俳句に見られる「痩せ蛙、負けるな一茶これにあり」との心情や、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込み水の音」と言った「ワビ、寂」の世界といった情趣、公園等を大切としない公徳心のない生活感情・・・等を何故持つようになったかを洞察して行ったのである。そのことは彼和辻博士が「人は他と同一化することによってのみ心の按ずる世界が得られる」とする東洋日本の諸宗教の見解に立ってはいるが、一歩前進しそれから脱却する方法として、東洋の智恵=仏教の空理論を用い、個々の体感の差異を指摘し、自我をも滅する(滅私奉公)事をも習得した日本の家族共同体の有り様を「襖や障子を境として安心して眠れる生活様式」等に見て、更に、知らず知らずに世の中を不合理不条理等と感じる我々の心情を気候風土にあるとして、究明し明解に論述しながら実践倫理学をも構築したのであった。自我を滅するとは他を生かす事に通じる滅私奉公との意味もあり、佛教の空理論と唯識理論をも玩味した概念であり、倫理学を実践倫理学と言う世俗の智恵にまで応用できるよう考案した功績は偉大でノーベル文化賞をも受賞しているのであった。
今我々が抱えている問題は多々ある。仮に人口問題一つとって見ても、先進国等と呼ばれる国々には人口が減少傾向を示し、後進国諸国には人口が増大する傾向にある。又、都市への人口の一極集中化も問題がある。先進国の医学の発達は長寿化社会に拍車を掛け、後進国等への労働者の期待を大とし貧富の差を益々激しくする。又、先進国の経済や文化、科学や医学等の発達が、後進国にとって人道的な面を含めて、良い影響を与え、役立っているとは云い難い。根本的な対策を後進国側から見直す必要があり、此処にも先進国としての自惚れと平和惚けがある。
現在は、自然破壊・資源エネルギー・国際協調・経済摩擦・デフレ不況・文化イデオロギー・核兵器大量破壊兵器・紛争難民・テロ・人種差別・飢饉・異常気性・・・等々の問題が山済みされており、過去の常識の枠を越えた問題を抱えている現況である。これ等の事柄に対して、@地球は近未来には破滅する。Aマンモスが死滅したような地殻変動と異常気象が起る。B森林の伐採、乱開発の所為だ、フロンの所為だ、政治が悪い、国が悪い・・・・等々と口先だけの批判の批判を繰り返し、全てに対して反対したり、善人振ったり、庶民の味方振ったり、文化人振ったりする輩が多く台頭して、又、彼等を指導者として仰ぎ狂信する輩も結構多いには驚きである。その原因の一部は、我々が楽するために開発して来た「科学技術」がこうした破壊等を生んだ事は既知であり、諸刃の剣として、悪鬼神(科学技術)達の利用を過った事を充分に理解し、反省しつつある処であり、決して預言や託宣・・・等の類にての所為ではないのである。
それより、我々はこれ等の原因を早急に研究し、二度と同じ過ちを繰り返さないような体制作りと、多様性を重視した環境保護等を勘案し、地域毎に共存共栄共生の倫理を確立し、それ等を後世に繋ぐ意味での善因善果の輪廻と転生を繰り返して行くための倫理哲学等を構築し、同時に、われわれの意識改革を計り、未来を見つめた「節度ある新しき技術、未来に優しく、荒廃した環境を復元できる技術・環境に配慮し、我々にもリサイクルが可能な技術・・・」等の開発に、取り組む必要に迫られているというべきだろう。
宗教の表現を借りるなら、我々の先祖禁忌タブーとしたパラドックスの箱を開けないように苦心し、用心しながら、一部の邪神(科学技術)等を善鬼神に変えてくれた。現代の我々はそれを過信か忘却して、抑止力である善神の教化教導(恕・情理・慈悲・倫理・道徳)の忠告を軽視したが為に、邪神の換言に騙されて、邪神が善神の教道にてやつと善鬼神に変じたものを、わざわざ元の邪神(悪鬼神)に戻す呪詛法を行ってしまい、邪神の住む世界、魑魅魍魎の棲み易い世界へと戻してしまったのである。此処では抽象化され一般化された邪神の概念は不必要となり、元の個々の具体的な邪神特性を知る必要が生じて、物事が全て複雑怪奇化して行くのであった。恰もそれは、核の抑止力等を持つ事自体が全て悪魔の妖力等の利用、強大な力がある等となり、平和利用も又悪魔の妖力等の利用と同じ意味と錯覚する輩も出現した。更に、善なる抑止力とは核兵器等を持たずとも、話し合い等にて理解しあう事が可能と云う事であり、而も、それにて相互の均衡が保てる等と云う、平和惚けした考えを主張した。確かに、地球は一つで武器よサラバは理想だが、絵に描いた餅で、現実的でないことを、得意げに平気で捲し立て、誰かが自分達の為に血を流し護ってくれるのは当り前にて、自分達は一滴たりとも血を流す必要が無く、無策無抵抗、逃避的平和を売り物にする「狡猾な邪神の論理」等を平和の大義名分として横行さしたのである。
このような按配にて、現実は、聖戦の名の元に宗教戦争が頻繁勃発している。正に今、宗教改革を行わなければならない時期でもあり、文化教養人振る人達、我々庶民も意識改革必要な時期でもあるが、慎重を期さないと此処にも大きな落とし穴が潜んでいた。
何故なら、和辻博士が指摘したように、神仏の世界に於いて全てが合理であると云うことは、我々の魂=霊性が仮に輪廻しながらも、神仏の世界に生まれ変れると云うのであれば、我々の魂も肉体も再生され不死になるとの意味を含味している事となる。我々は哲学者であり歴史家、預言者等であり、時代を代表する教養人であり権威であった宗教家等の指導にて宗教的素養を教導された。幸か不幸か、我々は感情思考にてそれ等を理解して行った。そして、神仏とは全知全能である。神仏の為す行為の全ては我々にとっては、不合理で不可怪な事で有っても、神仏の一挙一動には不合理性は無く、摂理に適合し合理であり、深意あり真善美そのものなのであると理解して行った。つまり、神仏が我々に罰を与えたとしても、それはそれなりに、神仏側に正当性が有り、我々の方に非があるとの考え方であり、神仏が我々の人生の全てを決定し、神仏が倫理規範、道徳律等そのものであるとの考え方にて、神仏を信仰の対象としており、全知全能、創造神、絶対真である・・・・等々と云う程度の理解度であった。神仏は我々からすると、常に犯すべからざるものである事は、今も昔も余り変りはなかったのである。
そして我々が犯した過ち罪も当然神仏に祈念したり懺悔したりすれば、赦されるとの信念が定着して行く事にもなるが、宗教家が指摘する様に神仏を「有情があり有的存在として把捉」すること自体に問題があったのである。だが、そんな事には無頓着な我々庶民は、神仏に頼んだら、神仏が我々の願いを聞き届けて下さるなら、例えそれが他人に著しく不利益な行為で不道徳的な邪悪な行為であったとしても、それは神仏の為せる行為(技)であるから、善なる行為と見なし、真の善なる神仏の為せる技かは論外として、反省悔悟する事無く正当化して行った。庶民の一徹にして頑固な性格は遺伝的なものとなり、一部の正当な宗教家等を困惑し続けさせている。このように我々を教化したのも勿論、宗教家なのであった。
さて、西洋の人々が神の世界に不合理性を押し付けたのに対して、日本を始め東洋の人々は、和辻博士が指摘したように、自然環境と地域性、歴史の中で「現世は無情で不合理な世界」と位置付けし、神仏の世界で全てが合理性であると主張し、又それを希求したのである。
東洋の哲学はインド語で「ダルシャナ」と言はれるが、ダルシャナとは「見る」と云うことであり「百聞一見にしかず」的思考方法であった。対して、西欧の哲学ヒロゾフイーとはソフィスト(詭弁論者)で知られるように真理の探究に於ける知的探求や知的遊びを意味していた。つまり、東洋の哲学の世界は真理の探究に於いて体験や経験、体感等を通じての「隠蔽された悟道」即ち「道=タウ=真理」との一体化を模索する事に心血を注いだのであった。西欧社会は合理主義科学主義に支えられ、世の中は合理であり、神仏の世界が不合理であっても何の不思議性は無いとする哲学思考が発達した。対して東洋思想はそれとは著しく異なり、経験的体感的唯心的哲学が主流となり、現世は不合理の世界だが、神仏の世界は合理だとし、宗教の中にも合理性を求め、宗教哲学もこの影響下にて、西欧的科学思考を異質なものと見るようになり、経験学的体感学的唯心的思想を東洋的科学的思考と見なして行った。この東西の哲学の違いは何れも優れたもので甲乙付け難いものだが、科学を異質とみる東洋の宗教の傾向は一部人々に受け継がれ、唯心論的に頑なこだわりを見せるが、殆どの日本の教養人等は、西欧かぶれとなり、善悪抜きにして、東洋的科学思考を軽蔑し、西洋科学を崇め傾注し、益々その激しさを顕著として行った。
更に戦後(第二次世界大戦)は文化人等を自称する輩達に依って、誤った自由主義、個人主義、利己主義等を以って、我々日本人が培ってきた哲学や哲学思想を蔑視し、嘲笑し、皮肉り、次々に都合の良い大義名分を丁稚上げて、地下に埋没さして行った。換言すれば、今は彼等による指導にて、恥じや道徳心を忘れたツケが来たと言うべき現況なのである。こうして、国旗や国歌敬意を示さない公務員が横行し、国も仕方なく容認している可笑しげな外人振った日本国民が、多く居る国となった。
こうして、情知と愛智を忘れさされた日本人は、物欲を無尽蔵に満たすものが科学技術であるとの亡霊に取り憑かれ、唯物論的思考を善とする催眠に操られ、精神の分裂状態を起こしながら、物欲が物の豊かさが精神の安寧と豊かさに繋がるものと錯覚し、夢想し、幻影の実像化、実現化等を希求して行った。
嘗って、仙道が不老長生を夢見て過酷な修行し、薬餌学、煉丹、錬金術等にて科学技術の発達に寄与した事は周知の通りであるが、無為自然を尊ぶ彼等が皮肉にも、彼等自ら否定した科学と言う邪悪な者(鬼道・魔道)に手を貸す事となったとは何とも皮肉なものであった。
又、徳を以って人倫の道(君子道)を説き、徳ある君子天子が治める理想国を夢見て努力精進をした儒教も、その理想理念も空しく、自らの説く五常の掟に縛られて、封建社会や独裁者のイデオロギーとして利用され、恕や中庸、仁らは素晴らしき哲理でありながら、佛教の空理と同じく曖昧さと寛容性と単なる善因善果の因果論中に、同じく埋没さされて行った。
このことは善神や善鬼神達である神々等を、儒教の中道(仁道)や仏教の空理論等を悪用し態々悪神や悪鬼神に変えて、我々には善神達であると欺き、自分達の意のままに、双方とも悪用せんとと企てたのと同じ意味であった。又、我国の神道や密教、特に修験道の「秘密を以って尊しとすべし」する教義や外儀的に整備された儀軌、現世利益を宗とする宗派、全てが大日に帰一する等の曼荼羅的思想、神道の天地創造説、我々も神々の子孫とする氏神信仰、神々が我々をイザと云う時救済してくれると云う神国としての信仰、言霊信仰・・・・等々が融合し、日本の祈祷宗や闇の仕事人達を作り上げて行った我々の信仰のあり方にも、彼等に浸け込まれる要素が大であった。周知の通り、彼等の武器は山岳で身に付けた体術や悪鬼神達の妖力・魔力等の悪用であったが、それは現代の文化教養人達が、我々先祖の培ってきた言霊信仰を悪用したのと全く次元は同じだったのである。
この思想概念は全てのこの世の不合理や矛盾が神仏の名に於いて合理となり正当化されるという西洋のキリスト教的懺悔思想等の悪用ともなり、物欲主義・本能主義・快楽主義・自由主義・科学万能主義・唯物主義・・・・等を助長さして行った。我々の道徳心や善悪論等を「世界の非常識人・恥じを忘れた日本人」等と酷評されるようになり、更に鬼神化した人々(教養人)から思想まで変革され、怪しげなる宗教観の容認し、政府が金を出して差別平和等を大義名分とする怪しげな国連関連のボランティア-的思想集団を擁護し育成したり、更に、自虐史感を教師達が得意げに子供達に教育するのを助成したりする始末。又、カルト的宗教教団まで育成し、自国の国民が他国にて災難に遭ってもそれに援助の手をも差し出すことが無く、何一つ是と言った思想信念と行動力の無い口ばかりの国、国民へと堕落してしまったのであった。更に、彼等は阿呆面下げて「我国の自国の悪口造言」を他国に吹聴し、更にオフレコまで一言も漏らさず進言し、自虐史感等にて他国に気に入られようとする行動は、他国にとっては我国等は赤子を捻るのと等しく、逆に日本人を蔑視し、「国民総非常識人で総阿呆」等と酷評されるに到ったのである。是の彼等の進言等は他国からすると思う壺にて、彼等は他国からは血行高い評価を得たのは当然のことであり、彼等は自分達の国事を暴き、自らを国際人と評価するが、自国日本を他国に売る売人であり、現代の日本では「彼等売国奴人」が持て囃される土壌なのである。
嘗って、ラフカディオハーン(小泉八雲)が日本の国民性を仏教の空理に見て、日本人は「我が身を犠牲(空)にして、周り(他)との協調と周りを生かす処世術をマスターした、世界に類のない穏健温和な良き国民性を持つと褒めちぎった国民性は、今は何処へいったのであろうか。それほどでもないにしろ、千利休が禅(禅宗)に学び、茶道の中に「幽玄」と寂と情趣を見出した。松尾芭蕉は俳句の世界にて「ワビとサビ」なる独自の世界を構築した。これ等は素晴らしき日本の心となり、我々の魂に「寂・もののあわれと・活淡・品格」等を感じさせるものであった。それは又、和辻哲郎博士の言うように、猫でも破れる襖や障子を境とし、安息安眠出来る家族や家を中心として、個人の我欲を抑えた日本の家族生活の中に見た、嘗って培われた「障子文化」であった。
我々の先祖が構築した「大和魂」は長い年月の中で誰に強制されることも無く、我々の先祖が平凡と質素な生活の中で、生きる為に培ってきた我国が唯一世界に自慢出来る、独自の素晴らしき精神的文化遺産であった。
さて、今、今世紀の我々の魂を救う宗教どんな宗教なのであろうか。又今世紀を救う科学技術に貢献するのは一体どのような神仏なのであろうか。
皆様は筆者がくどくどと述べて来た事から、既に類推されていると思いますが、それは皮肉にも悪鬼神や邪神達であり、我々の為に善鬼神となって力を貸してくれる神仏達であり、善鬼神達であるとの結論となる。例えば、逢えて独断と偏見にてその神仏の御名を上げると、心の不浄を食料として咥と言われる「金剛夜叉明王様」のような神様や、通常、物の不浄を食料として咥とされる通称便所の神様と言われる「烏須差摩(ウスサマ)明王様」的神様等が上げられる。又、死を予告し死直前に生胆や死肉を咥と云う「茶吉尼(ダキニ)天(豊川稲荷は稲穂大明神+茶吉尼天の合体となり、五穀豊饒の稲荷様となる)・・・・・等々の神様が上げられそうである。彼等は元は悪鬼神であるが、善神の教導にて慈と智とを円満具足した「善鬼神」に変身し、善神との条件をクリアした事になる。つまり、彼等は「善悪相応神・理知不二法身・而二不二法身・一如真如法身・・・・」と云われる神仏になるとのお墨付きを得た善鬼神であった。この事は勝手に「新興宗教」を名乗る者達にとっては格好の良き餌であり、宣伝材料であるとして利用し応用して行ったのである。だが、其処にはある特殊な条件(祭祀方法)が課せられていた。
こうした現況下で、「悪鬼神化した宗教家達=鬼道師達」は、宗教語を巧みに戯曲し応用して行き、自分の信ずる悪鬼神達等を善鬼神として、人々の信頼を得ようと、万有が神仏の化身とする汎神論、悉く仏性を有するとする仏性論や実相論等、時間的に万有が生成変化するとする素成論、縁によって起ると云う「縁起論の依他起生論」等にて、自らの本尊の正当性を論証しようと終始した。この中で関係性と意訳できる「縁起論」の創作にての反証が一番庶民を騙すのに都合が良かったようである。
少し余談となるが、仏教の説く縁起について略述しておこう。 縁起論には、業惑縁起・四種縁起(刹那縁起・遠続縁起・分位縁起・煉縛縁起)・真如(如来蔵)縁起・阿頼耶識縁起、法界縁起・六大縁起・・・・等々がある。例えば、業感縁起とは、輪廻の生存(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天(の六趣若しくは阿修羅を除いて五種))を十二縁起で解釈したものであり、業感の十二縁起とは、「無明と行」を過去世の二因とする。無明は過去で行った宿惑(煩悩)界の位で、「行」はその宿惑に基づく善悪宿業と解釈する。この宿業にて今世の生まれが決まる。その「結生の識」が「第三の識支」と云う。この「托胎の刹那」に「五蘊」が備わり、識蘊が優勢なので識支の位とする。母胎の中で肉体が形成する位が「名色」である。母胎の中で五感五官が備わる位が「六処」で、生まれて二三歳迄が「触の位」である。次に苦楽を感受するが淫欲が無い頃が「童子の位」である。淫欲が出てくる青年の頃が「愛の位」、長じて名誉や財産を得ようとするのが「取の位」である。これにて未来への業を積集するのが「有の位」である。この現世の愛と取とは過去世の無明に相当し、有は過去世の行と同じである。識〜有までの八支が「現世」で、識〜受までの五支は「現在の五果」であり、愛・取・有の三支が未来果となる「現世の三因」である。現世の三因〜未来の生があり、未来世の生が縁起の十一の生支となる。しかし、現在から言うと第三の識支に相当し、果としての未来世は老いて死ぬ事となり十二支の老支の位で、現世の名色〜受までに相当すると説明している。又、業には先にも述べたが「物質を結合し煉縛する力」があると説明する。以上が業感縁起からの十二縁起の説明である。何れしても因果論に類似する理論で因縁生起の略とも言われ、直接原因と間接原因等が複雑に絡み合って現在の結果が生じているとの意味で・・・・万物は全て因縁仮和合なのであると説く。更に転じて、これ等が複雑に絡みあって万物が「生成変化・創造破壊・変易変革」等々をするその現象の中に実相を見ようとするのが実相論である。佛教は全てが因縁仮和合なるため「縁起空」との立場に立つ。つまり、我々も「0零」からの所成で、又近似となる奇跡の所産なのである。仏教の世界観による破壊と生成については前章で述べた事にてお解り頂けたと思うので、此処では省略することとしたい。
さて、縁起空とは既知の如く、八宗の祖師と言われる南インドのナーガルジュナー(三論宗の祖)の理論にて、釈迦の縁起法を説明したものを受けて、八不の謁にて全てを否定した。即ち自我の存在を認める迷執、我と我を取り巻く世界の恒久性を認める法(あるがままの存在)と云う法執との否定「我法二空」等を説く空理論である。これを以って、釈迦如来を縁起法を説き給える説法中の第一人者と崇め、関係性と訳される縁起を空理論にて説明し、釈迦如来の「仏智=智門」等を説明したものとした。それは仏教の重要な哲理となり「修証門」とも転釈している。又、北インドの無著・世親(唯識宗の祖師達)の兄弟は唯識論を展開し「一切の諸法は、皆、心の所成・・・・」であり実有なる存在は唯識(心の認識作用)にあり、・・・とする説で、森羅万象は全て心の所生であるから実有なる存在は何一つ無いと説明した。真理そのものを認識できる唯一の心識は、人間の潜在意識の最奧にある第八識(阿頼耶識=第十識・第二十識とも言う)等にて覚智することが出来ると云う。この八識は如来蔵識と同一視する見方もある。唯識論は釈迦如来や仏如来の「慈悲=慈悲門」を説明したものとして、仏教の重要な哲理となり「廻向門・禅定門」等と転釈している。
先の空理論とこの唯識論は何れも仏教の真髄を理解する為には必ず習得しなければならない二大哲理と言われるものだが、空理論は修行段階における煩悩撲滅の為の知的部門で全ての煩悩を砕破して「修証能力の開発」等を目的とし、唯識論は佛果の内証を覚智する為に心の習癖からの脱皮にて「心覚の完成=禅定能力の持続」等目的としたものであつたのであった。
又、教法を聞いて修証する能力とは(小乗では声門とも云う)、我々の根性と性質を「機根=器」と云い、我々の教養や知識等に依って、妄執からの遠離度に依って、覚証能力、心覚の覚醒能力等に差異遅速あるとの説明が、即ち我々の「器=能力」の違いであり、「機根論」等といわれた悟りの能力の差異を意味していた。 我々の痴愚の差異による覚証能力の差異は感応能力の優劣でもあり、勧請招請し得る神仏にも法性身・報身・変化身・・・等の差別が出来て終い、彼等の言う佛身論へと展開する事となるが、要するに、感応そのものが正しい自己催眠に依るものか、無我の境地にてのものなのか、忘我にてのものか、我々には知る術もないのが現実なのである。
対して宗教家達の多くは自分の本尊を「法身そのもので、神仏は神仏の名を冠する限りに於いては、何れも真の神仏に代わりが無く、神仏には優劣はなく、優劣があるのは我々である・・・・」と云う、先程とは矛盾した回答を用意し、教養や覚証能力はむしろ不必要で、それが疑念や煩悩の対象となり障害となる等とも説明するのであった。だが、結果は尚更意味不明となり、その上説明不足でもあり、神仏の世界は神秘のベールに包まれているのであり、我々の物差しである「科学的思考や哲学等」等では、差別智からでは、到底理解出来るものでないと説明したに過ぎないのであった。然し、正当な宗教家自身も「理具成仏や即心成仏」を掲げておるかぎり、哲学的成仏も有り得ることとなり、先の言い訳はナンセンスであり、其処からは特定の宗教家の鼻持ちならぬ選民意識が感じられるのであった。
我々がこの鼻持ちならぬ特定の宗教家(鬼道師達を含む)に
「何故、人は悩み苦しむのか」と問えば、答えは判を押したように「無知=無明=愚か=貪瞋痴」から説明する縁起論(十二縁起)にての回答であった。
問う「我々でも神仏と感応、合一、感得等が出来得るか」
回答「加持、即心、理具、顕徳(即身)等の成仏での三昧があり、各人の機根、修行、正思惟・・・等にて差異が出来、而も、各人を守護する護法身・守護神・指導霊・・・等にも各人の機根・修行・・・等にて招請能力にも差異が出来、低級なる神仏や眷属〜最高級の神仏や眷属等迄の段階があり、その神霊仏霊等の階級如何よって、その三昧も成仏もそれを異にする・・・・云々」と。
問う「我々は本当に道を得て悟り得るのか」
回答「全てに神霊仏霊等は内在する。仏曰く「全てに仏性あり、悉皆成仏せざるものはなし」・・・と。神仏の仏性論、霊性の存在論等を信じて信心に励みなさい・・・云々」と。
問う「我々の心構えと、信心の有様は・・・」
回答「経に曰く、信心とは神仏になろうと大決心(大決定心)起こし、日々努力する事である・・・云々」と。又曰く「信とは真にして衆生心なり・・・云々」と。又曰「心を空しくして、専心に念仏すべし」、「心身を清め精神を惑乱せず、無我の境地にて神仏を至心に念じ、その御心、姿容を観想せよ・・・云々」と。
問う「道を得る。悟りを得る。神仏との感応とは・・・・」
回答「経に曰く、道を得る悟りを得るとは「如実に自らの心を見る事である・・・」と。又曰く感応とは「自然との一体感であり、山川草木全てが我が師にして、わが友なり・・・」と。又曰く「悟りて見れば、この世は寂静にして、花盛りなり。行き行きて、行け、(そうすれば)彼岸に到る(涅槃=悟りの境界)を成就すると。涅槃とは煩悩(煩悩の火)を吹き消した瞬間である。悟れば天界等に生まれ、不老不死を得て、この世の悩みから全て厭離出来て、全て思いのままの満足が得られる・・・・」と。経に曰く「諸法は全て心の所成にて、何一つ実相を見ることは出来ない。だが、人間の潜在意識の最奧には第八識の阿頼耶識があり、これが神仏と感応出来る唯一の意識である。神仏と感応出来た阿頼耶識が縁(因)となり、果となり、神仏との感応の深まりを示す阿頼耶縁起となる・・・云々」と。又曰く「諸法は、全て空(我法二空にして)、不一不異・不断不常・不如不去・不二不一(八不掲の変形)」となる理を悟り、真理を説く縁起法の空理論にて可能なり・・・・」と。又曰く「仏法遥かなるに非ず、心中にして即ち近し・・・・」と。又曰く「方便を以って究竟すべし・・・」と。
問う「修行とは・・・・」
回答「四諦・十二因縁・八正道・十善戒」と。又、曰く「修行とは苦行難行に非ずして、楽行なり、唯、精進と禅那と正思惟のみあってす・・・・・」と。又、曰く「神仏に成らんと決心し、神仏に近づかんと努力精進すること。或いは、神仏の御心とその行為(誓願・意義・作法=意密・身密・語密)を常住坐臥に念じ見習う事・・・」である。又、曰く「修業とは恰も衆生が金持ちになろうと目的定めて、金持ちになる為に努力を惜しまないのと同様である。故にそれは楽行である。・・・・・」と。
又、問う「では、真実とはなにか・・・」
回答「貴方方が見聞し、真実として固執している物は、全て仮実像(虚像)であって何一つ真実なるものはない。この世に存在しないもの即ち虚像を有的なものとして把捉しているに過ぎない。万物は全て変易し無常なものであり、その一側面、一刹那の姿等を見て、実存と感じて固執しているに過ぎない。つまり、貴方達が見聞する物は貴方方がそのように見聞したものであり、実際の姿容は如何なる物かは不明であり、心の幻影であり、空なのである・・・」と。又、曰く「真実なるものは言語を超越しているので、全てが方便の中に隠蔽されていると云える。又、存在そのものは因縁仮和合(仮像)であるが為に、虚偽虚像にて月影の如き物と云える。だが、逆に我々が知覚し認識する刹那刹那の虚像や幻影も或る側面からは、真実の幻影を映し出していると言える。そこから大いなる止観にて、真実を覚智出来る要素も否定できない・・・」と。又、曰く「真実とは、存在もなく無でも無い不可視不可知なる存在にて、摂理そのもの、真理そのものであり、宇宙意志・・・・等と呼ばれるものにて、言語を絶し、真の神仏と呼ばれるものだろう・・・・」と。
更に問う「それでは、此処で一先ず貴方達の云う論理を信じて、努力精進を怠らなければ、我々は何れの時にか神仏の浄土に生まれ、不退転の身と心が得られるのか。或る面では宗教の歴史はそれを信奉した人々による戦い紛争、殉教、テロ、略奪・・・・等の歴史なのは如何なる理由か・・・」と。
回答「その通である。迷いこそ悟りの唾一歩である・・・」と。又、曰く「戦いや残虐を好む邪神達にも各々の使命と役割が有ってその存在意義がある。たが、概して彼等も我々と同様に本能的煩悩、邪心妄想怨念貪欲等に支配されている。それでも一度神仏の加持によりて真の使命と役割を知れば守護神や護法神等に変じる事が出来る様に、神仏と縁結びをする事により、我々の煩悩、大欲も神仏の加持にて浄化され、大欲清浄菩薩位・煩悩即菩提となるであろう・・・・」と。
宗教の歴史が何故戦いの歴史となるかの具体的な回答は何一つ無く、その他は日本の閣僚や大臣の答弁と同じく「総論はまあまあで、各論にては具体性無く、何一つ納得出来難い・・・」と、思われる回答であった。
且って、筆者も若かりし頃(25、6歳頃)約1ヵ年程師について修業する事とした。今は64歳前後。
さて、私考すれば宗教とは、神仏(悩みの解決)に対して、発心(ほっしん=信を起こす事)→修行(精進努力)→菩提(発想の転換、変革、悔悟)→涅槃(悟り、閃き)等の繰り返しての思考方法があり、精神統一・止観・禅那等にての感応等にて、あらゆる擬似体験等を経て、人格完成の第一歩を修行として選び、而も、何の為の精進努力や体験なのか、何の為の大義名分や目的の遂行なのかが明確であり、それが個人と人間社会全体をより良い方向へと高めるものでなければ、その価値はないと思われるからである。又、世の成功の九割は失敗の美学を学びし者、即ち失敗する事を前提にして何事を慮り、物事を進めた人々が成功し、成功をばかりを夢見た人々の殆どが失敗の憂き目を見て居る世の通例も参考に値する。
師に従って座禅すれば、先ずは足腰の痛みに耐えかね、次には身体のバランス感覚を失い、呼吸の調整が上手く行かず気息は乱れ、脳裏には魑魅魍魎等の妄想に悩まされるが、15日を過ぎた頃から、それ等は消え失せた。変わり、虚無感や諦感、寂観等が混在し、研ぎ澄まされる神経は耳の心音、心臓の鼓動、呼吸の息遣い、周りの風騒、雑音、虫の声・・・等が精神を昂揚させる。時々脳裏に去来する幻影も睡魔も却って眠りを醒す守護神となり、自己催眠に依る自己陶酔や忘我は我が悪魔となる。時々回りと一体化し大きくも小さくも感じられ、妙な安堵感と精気神気が漲るのも感じられた。
師曰く「我が心、不動心となると念ぜよ。次に心、風にそよぐ竹葉の如と念ぜよ・・・」と。
師の云う通り、心身を石の如く不動になれと念ずれば、不思議と身体は石の如くとなり、心は空虚となるが、何れも自己催眠の域にて、武術の体術のようなもので何も悟り得るものなし。心を風にそよぐ竹葉、海岸に打ち寄せる波を観ずれば、山に登りし時に味わえる神気と、自然の中での極小なる自分、それでいて何か母の懐に懐かれし安堵感と、心が洗われるような神々しさを刹那刹那に体感するのみ・・・・・。
月日は10ヶ月を過ぎた頃のことである。 一条の光あり、霧の如く降り注ぎ我が身を包む。安心の光にて妙なる香に似た匂いが漂う。声無き声あり「我は宝間大神なり、これより汝を守護すべし・・・・」と。
師曰く「実に勿体無くも有難いお告げである・・・云々」と。師は云うが、果たしてそうなのであろうか。ただ、それが悟りへの道か、宗教の正道への道かは半信半疑であり、我が身は、或時は、右回り、又或時は、左回りにて、回転する己を感じる。而もそれは、安心の光に対応するもう一人の自分を認識しており、その後、時々気絶して目覚めるも軽い眩暈はあるが不快感はない・・・・・・。
思うに、諸宗教が正道と云われる為には、人間や物、自然界の超自然、それ等の中に潜む不可視不可知なる霊性や霊精等、それ等の持つ妖力や霊力等との関りから、我々がそれ等を崇拝したり、畏怖したり、敬信したり、探求したりしながら、人間が人間としての喜怒哀楽、生きる為に止もえず動植物等を殺して、生命エネルギー等を得て生かされていることに感謝し、如何に生きるかを生と死の狭間にて慮り、共生のあり方と真善美への問いと、人間としての役割を果すと云う使命的なものを模索し続けるところに、宗教の正道の存在価値があり、其処にこそ正道として持続可能だと思われるからである。
つまり、妙力や霊力、不可思議力等そのものが神仏であったが、その価値等が時代と共に変遷して行った。又、そしてそれは、歴史的に取捨選択され自然淘汰されて高められて来た。我々はそれ等の神仏を通じて我々人間の定命論的な運命論ではなく、如何に生きるべきかを、個と全体の中の個として生き生かされる関係を認識しながら、確かな目的意識と指名意識を持ち、知情意=愛智と情知等にて正邪を判じ、抑えるべき欲望を転じて、人間の活力等を高めて、怨念、情念、執念等を統御してゆく方法を構築しマスターしなければならないのであった。その心情が神仏への敬信となったのでであり、神仏への感応への道であり、正道への道であるなら、正しい意味での輪廻転生も有り得る事となり、人類の発展、他との共存共栄と言う相矛盾する事柄にも線引きすることにて有る程度の解決策を模索出来、技術と言う邪神も含めて、神仏の恵としての感謝の念も自ずと生る事となると思われるのである。
さて、このような解釈から、前記宗教の神仏での「佛身論」の定義にて述べた事柄を要約すると、
(一)真理そのもの・絶対神・宇宙意識・・・・等に分類される神仏は「0的」であり、空空漠々たる存在であつた。 それは最高の理想神であり、真の解脱の対象神として全ての神仏の頂点に立ち、而も、全てを創造し統帥していおり、我々にとっては間接的ながらも、正道に導く判神王であり、神仏の教父母王であり、父王にして神仏の母として、犯すべからざる「絶対神=絶対真(理法身)」であった。
(二)その他の神仏はとなると、前記(一)の(0)なる神仏の神仏の相(現象)としの神仏と言う事になるが、又、ある面では0なる神仏から教化教道指示を直接受けている神仏等とも言われ、我々を救うと云う大願と、慈悲有るが故に我々の願いにて、善悪両神の何れにも変じ得る残存思念を持つ、心優しき神仏や善鬼神達等・・・と定義 出来る神仏(智法身)達であった。
対して、我々が何となく感じたり想像したり、辛うじて認識し得る神仏とは、前記(二)の神仏と云えそうだが、そうではなく、更に一段下の神仏にて、前記(二)の善神仏等に依って、悪鬼神等の横暴・残虐性・・等を鎮められ、慈悲心等を芽生えさせられ、鬼神達を説得し、善鬼神化さした神仏等で、摂理のあるべき姿として、平衡とバランス、平静安穏、無事息災、和合協調・・・等の善性を喚起させ、守護神や護法身、招福神、善鬼神・・・等として教化教導してくれた神仏達といえる神々であった。つまり、0の神仏の勅令を受けた神仏から、更に教化教道され善鬼神となった神仏(神使、眷属達等)等と、我々は直接関れると言う事であるらしい。
今云うところの悪鬼神や邪神達等とは「殺戮横暴・野心野望・動乱紛争・憤懣憎愛・享楽快楽・・・・・等の欲望を欲しいままに独占しょうとする魔性の神仏であり、前記(一)の0的神仏のマイナス(負面)を代表する者達であり、生面では無く、死面の暗黒を代表するものなのである。或る一面では、前記(二)の神仏が我々を救わんとする残存思念の悪化現象(負面)とも位言い換えられ、我々人間の欲望を刺激して、情念怨念執念等に変えて、人間のやる気や活力源起こさせ、財や技術等迄も与える知福神指導神等となる。又、伝統的な物、自然の摂理等を破壊する破壊神達の終極の役目は、不浄(不浄なる物、者、心・不浄なる物心両面)を浄化する役割等を担い、憤怒尊・供養尊、伝達伝令尊・戦勝戦闘尊・・・・・等々として祭祀される神仏等のことである。
これ等善悪両神は、前記(一)のマイナス面とプラス面(陰陽の如きもの)等を表すものであり、宇宙意識(真理そのもの)の現象として、彼最高神を判神王とするものである。宗教的表現では、(一)の神仏を「体」としてその「相」であり「用=作用」である神仏等するのが、前記(二)の神仏であり、最終的には(一)の神仏に帰一するものとの説明となる。
仮に、これ等の事が真実なら、我々の神仏に祈願して成就した事柄は「神仏のなせる技」なるが故に全てが善になるとの考えも一部肯定される事となり、又、知らず知らずに過去現在未来に行い行うとする罪業の数々も、神仏に至心に懺悔すればその罪科も消滅するとの考えも肯定される事となる。つまり、プラスマイナスにて都合よくゼロになる判定を心待ちしていると言った按配となり、些か不審に思われる。
我々は宗教家を仲介とした神仏との出会いが殆どであり、我々からすれば神仏の体でも相でもなく、その現象しての霊力・妙力(用=作用)・神通力等の噂話に勧誘され、その付加価値に魅了された入信動機が殆どを占めてた。それは何れも「方便」との出会いであって、本体との出会いでは決して無いという事であった。この意味からは、最終意志である神仏の本体は、最終審判は、我々とは無関係になされている事であり、完全無欠なる神仏の本体が、今更、我々に対して最終意志を決定しなおすと言うことこそ眉唾物であり、そうでないなら、宗教の方便となるからである。神仏が我々に科す最終審判は神仏の最終決定ではなく、摂理や法則等を無視した人間の傲慢への当然の報いであり、それこそ因果報応と云うべきであろう。そして邪神達の我々に対する脅かしも、警告であると云うのが正しく、我々は摂理としての神仏、邪神等に対して、せめても謝意と悔悟と二度と同じ過ちを繰り返さないよう誓約するというのが、真実であり誠の信心であろう。この意味から神仏のなせる技だから全てが善と判断するのはでなく、邪神等となって我々を救おうとする慈悲ある神仏等の行為も、神仏等の独断と偏見にてなされる行為(悪業)の数々も又、神仏の為せる技と認識する必要がある。その判断には人間としての宗教行為の判断に「情知と愛智」等が必要となる部分的要素があり、我々は宗教の正道と付き会うと言う選択肢が、我々の自由意志として遺されていると認識する必要がある。
それは又、鬼道と正道の狭間に棲む悪鬼神達は、正真正銘の悪魔達であるが、宗教の正道の中に住み正道から悪魔と云われた悪鬼神達が、善鬼神や善神で有ったと云う奇妙な論理も成り立つのであった。つまり、宗教も神仏達も悪用するものには、人々を殺戮するカルト教団ともなり得る諸刃の剣と言う要素があると、認識する必要があるのである。
以上が、民衆(我々)の心から正道への希求とその思いと心情である。
即ち仏教から云う衆生とは、情識ある者(有情)・・・・達なのであるからである。