第四章 正道への希求
(一)正道存在の謎(往生、極楽と地獄)
前章迄で筆者は、我々の意志とは無関係と思われる神仏や自然の神秘に対して、我々人間の都合にて勝手な解釈を試みた事を検証してきた。結果は宇宙意思的なものは「存在も無く、無でも無い」零的なものとの結論得た。又、其処には人間が「存在して欲しい・・・・」と希求する限りに於いてのみ神仏の存在価値があり、人間も神仏から創造されたと言う双方向の思想が成立して、人間的神仏迄も希求し創造して行く事となった。諸宗教が我々を憐れんで我々の魂の救済として用意した神仏は、実際は理法身ではなく、我々を救済せんと大願を発し我々の方に向き直り、来迎してくれる慈悲ある神仏の智法身(報身)や変化身(等流身)であった。其処に少なからず神仏に対する曲解や誤解が起り、悪鬼神や前神仏等区別無く利用し、支配して駆使せんと企図した事から、上下の差別区別もなくなり、尊敬心も敬信畏怖も消え失せた。それは、戦後の外来文化、一神教の影響下で拍車が罹り、平等や自由を履違えて、我々の魂の分裂が始まったと云えると私考出来たのであった。
さて、我々の死後の魂=霊性があると仮定するなら、我々の魂は一体何処へ行くのか、どんな往生するのか、興味津々である。それは如何なる神仏の御許(十方往生)なのかも問題である。そこで佛身論を少し振り帰って見よう。
既知の通り、本来東洋の神仏とは、インドで云うところの「無・零(0)的」であった。仏教の根本思想も竜樹の空理論にて「縁起空・無」であり、全てが「空」に包含されていた。又、中国の道教は「虚無=道」であり、儒教は「中庸=天理」であった。日本の神道は「混沌・光ありき」であった。
仏教の佛尊に対する最高の敬称は「如来・如去」だが、如来とは「零=極無=絶対真空」から誕生したとの意味の無限大・無限小のプラス面を意味し、如去とは死す等と云う無限大無限小のマイナス面を意味しており、総じて「来るが如し・去るが如し」等と訳され、人間の生と死に対する一回答でもあった。
つまり、神仏は零=0的で、万物も「0的」から0的なる神仏に創造され、死して(寂滅)0的に戻る。この間断無き輪廻の繰り返しが、即ち神仏(0)の意志から出発しているとの意味で、無から有を生むとの意味にも転釈できたのであった。
釈迦滅後に大乗が盛んになる迄「小乗」の解脱とは、独覚と云われ、精進努力し、自分ひとり輪廻しない覚者(悟りを得た者)になることであった。つまり、小乗的解脱とは、0的存在になる、無になるとの意味であり、0的=神仏との意味から、孤独に耐えて「0的への信仰、0的になる修行」等に精進努力して来た事となるようだ。対して「大乗の解脱」とは、0的なる神仏に対する「起信=信義=信仰=直心」等を説き、真の解脱を諦め、解脱を最終の理想と掲げながら「即論」を展開して行った。 即論とは真の解脱、理智、我々と神仏・・等とは表裏一体で不二、而二、即真、真如、即心、即妙・・・・等の関係性が有り、限りなく「根源=0」に修練され微分積分の世界であり、近似解脱が大乗の目指した解脱の境地であった。
さて、上記の筆者が述べた勝手な解釈云々とは、神仏からは人間としての存在価値や人間意志等はどうでも良い事であったようで、換言すれば、我々が神仏と如何に付き合うかを模索する訳であり、その「思考と方法論」等に、我々側に問題点があったと言いたかったのである。
我々は神仏に対して始めは「畏怖・敬信・迎合・同調・感応・統合・順応・適応・・・・・」等を通じての付き合い方していたが、次第に我々人間が彼等(神仏)と如何に関わり合うかの手段や方法を習得しょうと企図して行った。
@神々との関り方を画策して、人間としての有るべき姿、己の心=魂への呼びかけをして行った。
A他方、彼等(神仏)を支配し隷属させて、コントロール出来ると過信して、敵対するもの怨敵等の攻撃力を倍加した武器としての呪詛法を完成させ、怨敵害敵邪悪な者等にだけでなく、最終的には、我々にも、我々の心にもそれを向けたのである。
それは各々の関係性の産物、因縁仮和合としの人間の自覚の始まりであり、無常なる人間性を再認識する方法の一となつた。又、我々人間のやり場の無い鬱憤やストレス解消の格好の場所であり、その対象ともなった。それ等を含めて我々は「宗教的行為」と呼ぶと漠然とであるが認識出来たのであった。
さて、本題の宗教の言う「往生」とは極楽往生に代表される言葉で、既知のように、肉体的にも精神的にも死に至ることで、長生きしても余り苦しむことなく安楽死出来る事を含めて、せめてあの世でも安楽に、幸に居られる事を期し、「神仏の国」等に誕生する事をも夢想していた。未知なる世界、死後の世界に於いても我々は「0でも無でも無い」神仏の世界にて、魂の安息の永遠性を求めたかったのであった。
万物が無常であると同様に人間である我々も「誕生したら必ず死す」は逃れなら無い絶対的宿命であり、理屈としては理解できるが、死の直前迄中々諦められるものではなく、逆に如何に死にたいと望んでも自殺以外は「お呼びが来るまで」如何ともし難いものなのであった。
その為、我々の祖先達も「超自然的なもの」その奥にある永遠の生命力と神秘性、魂の不可思議性等を唯神として「有我論」にて契合し支配せんとした潮流と、それ等を唯心として「無我論」にて適応せんとした潮流等に分かれて、生と死言う根本的な悩みから精神的にも肉体的にも超越し開放されたいととの願望=「永遠の肉体と生命・死からの超越・生命体そのもの・精神の永遠の安息・悟り・近似解脱・・・」を得る為の努力は惜しまなかったようであった。
此処が問題なのである。前述の通り、神仏は「0的」であり、我々は「0的」を信仰しているのであるから、最終目的は肉体的精神的にも「0的なもの」に帰一する事となる。これが真の解脱であり、悟りだつたことになる。だが、我々凡人には中々このような境地になれないのも現実なのである。
処で、宗教は最後に「肉体を阻害するもの、精神を惑乱するもの」等を悉く内外の害敵怨敵として排除しょうとするが、次第に無理だと判断し方向転換して行った。つまり、人間を阻害する者等と仲良く共存する方法を模索しながら、人間として最高の人格完成への道を目的として、何が本当の幸かを含めて、せめて死に挑みて無(0的)となれる条件でもある「恕や他への気配り(慈悲)」等を通じて「人間の生き様「を考慮して行ったのである。我々の死後の魂が天国や地獄に行ける条件は「善性の開発」にある等と説くが、0的なる神仏に帰一出来る条件の我々の機根(器)差もあり、神仏になる為の観想修行方法、神仏への祭祀方法・・・等の完成度もある等と、諸宗教は多く宣布し、布教して来たが、その真偽を別とすれば、今も同様に大いに宣教宣布されている。何れを信ずるかは我々の自由であるが、臨死体験等の体験談等が語られ、類似性と不確定性が幸いしてか実に怪しげな宗教も多いのが現実である。
さて、日本の宗教が正道であるか否かを論及する為には「神仏の啓示・・・等」と言う神秘性の障害を後回しにして、宗教の「人工的部分」に注目する必要がある。それは何かと言うと、宗教祖師達が他宗派との優劣を競った論評であり、「論釈(論)=判教」等と言われるものがある。神仏の託宣啓示等を受ける者にも優劣があり、それにて、判教にて、我々との関わりに於いて、その宗教が正道としての存在か否かの謎を探れそうだからである。判教については後章(三)宗教と正道にて少し詳しく述べますので此処では省略して論を進めます。
余談となるが、一般に「善」とは、人間とって最も善い事であり、正しい事、好ましい事、めでたい事等の意味だが、その外に適宜に処理する、自分が是とする、是正する等の意味をも玩味していた。これはその時は善であっても時の流れの洗礼を受けて、人間が人間としての人為的行為の是正を余儀なくされても、変わる事無くて、我々にとつても周りにとっても、最も良い「善なる徳」で有り続ける事が必要との意味であった。
この点に於いては歴史的地域的淘汰の洗礼を受けて育まれた「宗教の発達史・正道史」等も同じ経過を辿ったと言えそうである。だが、自らの悩みは同時に人類共通の悩みであるとの認識のもとに、その解決策の思索を通じて、神仏との同化融合にて悟りを得たと称して、人々を救済するとして宣布宣教し、次第に人が集まり教団化組織化するに至る過程を辿り、社会に優れた功績等等を残した宗教は「善なる宗教=正道なる宗教」等と一応云えるが、教団としての維持・管理・保護・経営・地位・場所・形式儀式・・・・等の人間的要素が加わると最初の理想や理念もやがて方便にて謦咳化してしまい、宗教そのもの神仏そのものに多くの人工的作意的要素が付加され形式化儀式化されて行ったという按配である。歴史の流れは又それ等の外の多くを、時代時代の人々にて、人間の都合にて迷信として勝手に取捨選択したり崇め奉ったりして抽象化したり具象化したり慣習化したりして今に継承されている。但し、それは善悪抜きにして伝統として文化遺産として価値を有する物としてだからである。
我々も自然の所産であり、自然としての存在である以上自然を無視し自然を離れて生活する事は出来ない。前述の如く我々の先祖は自然をも畏怖し敬信した。その信仰形態はある意味では頷けるものもあり、先祖達の共生の仕方であり優しさであり、我々現代の子孫が批判し揶揄する程の雑菌紛れの宗教的土壌ではなかったようである。我々先祖の純真で素朴、自然的野性的動物本能的生き方はあくまでも現代の我々の理想ではある。だが、現在、自由奔放野放しを容認すれば、社会集団共同生活等が自然と共に崩壊するのと同様に、我々先祖も自然そのものを「善」としたのでなく、自然の神秘に如何に付き合うかを宗教(神仏)を通じて模索したのであり、自然そのもの全てを「善化」する考えはむしろ迷信とし、自然の多様性と無常を真理として、その奥にある不変性普遍性不偏性神秘性等を認知し、更に、その奥にある創造神や絶対神等を覚知して、佛や神々を希求し、神仏に頼るなら、この世の不条理から逃れられて、神仏に守護加護された理想社会の実現も可能であり、必然としての「人間の生と死」からの超越だけでなく、富裕と幸福・・・・・等々を含めて人間らしさの追及から、人類の普遍の悩みを少しでも安穏安寧にしたいと夢想し続けて来たのであった。この点では現代の我々の方が祖先の考えを曲折し誤解していると思われるのである。
仏教から我々の持つ欲望について説明すると、我々の住む人間世界は三界=無色界・色界・欲界の欲界に属し、食欲淫欲睡眠欲等を求める世界となる。つまり、宗教家達が指摘するように我々の住む世界は欲情の欲するままに、自己所有欲と利己的我執欲が混在する汚泥的で臭悪世界と位置付けた。勿論、我々も見境の無い利己的物欲や性欲等を抑制しなければならないが、食欲や性欲等は生存や子孫繁栄に不可欠な要素でもあり、一般的な生活環境の下では人間としてのモラルと節制節度が必要なのは当然の理であった。だが、極最近迄、この欲望(物欲・即物主義)等に非常に寛容となり、法規範、道徳慣習、哲学宗教等にて物欲等を保護し飼い馴らして、使い捨て時代を謳歌し、産廃塵等も放置し、それが社会的に清潔でクリーンなエネルギーと錯覚させ、社会全体が懸命に自然破壊人間不信へと努力する姿があった。結末は実に悲惨なものであった。
且って、我々先祖が努力して極力捨てようとした「物欲」等を、現代の我々が刺激してそれを目覚めさせ、団子に丸めて美化し善化して文化人振る風潮は、人間としての生き方さえ変革して行き、生活様式が豊になった反面、心の貧しさを惹起させ堕落さしていったのである。
以上の事から、宗教が鬼道としてでなく「正道」として生き残る為の必要充分要件は
@完全円満なる最高の人格神(絶対神・宇宙意志・仏陀・・・等)等を尊信し、自らもその目標に向かいて精進努力を怠らない宗教。
A神仏との関係に於いて、人間としての「愛智と情知」とに拘りを以って、物と人、人と人、物と物等のあらゆる関係を大切にしながら、欲望物欲等を節度を以ってコントロールする事を学び得る宗教。
B社会的動物としての人間と、個としての人間との関係を円滑化し、而も人間としの人格完成を各々に応じて助成する宗教。
C種々なる人々の悩みを他に転化したり逃避したりする方法を教えるのでなく、人間の行為と責務を認識させ、自らを研磨し努力し、人間味ある人を育てる宗教。・・・・・等が正道の必要最低条件だろう。
断じて、奇跡を起こし超能力が授かる等と宣伝し入信を勧誘する宗教は鬼道であって正道ではない。其処には、魂の安息安寧もなく従って「往生」もないと肝に銘じる必要がある。
何故なら+−面をも包含するのが「0的」であり、絶対空であり虚無、真理そのもので不可知不可視である神仏が我々に対して奇跡を起すと言うこと自体が不可思議だからである。百歩譲り、それを妥当だと容認したとしても、我々の眼前には次元の低い神仏とか、我々に慈悲を垂れ給える人格神(報身=智法身)とかが現出したりするのである。焦れば、一時の気休めとしての悪鬼神達が現れたり、幻覚神が出現して、我々を救い給うと言う不合理な結果を招く事となるからである。つまり、宗教家達が言うように、彼等は悟りを得ていない者達であり、従って独自の浄土もなく、餌(宿主)を求めて怨念にて浮遊しており、人間との取引にてやっと生存エネルギーを得ており、、而も、未だに、何かに執着しており、物や者に憑きて存在する「執着神(地縛霊)や邪霊・憑依霊」等にて、魔界や魔窟浮遊して住むが善神仏の浄土に甦生する当ても無く、とても、我々を「往生」に導く力のない輩達だからである。
其処には自然の摂理である「生と死」から生じる我々の根本的悩みとしての往生の解決を示唆する、神仏や宗教等にも優劣が存在する事となり、我々の理解度にも関係して「正道の中にも鬼道が存在し、鬼道の中にも正道を認知する事」となり、最後には正道の存在すら希薄化し、正道も我々も鬼道にて依って常に「魂」を惑乱され続けて、便りの正道も葬式宗教観光寺社と堕落して行き、今では鬼道の中の正道を捜さなければ救われないと云う状況下にあるのである。何が正道か否か謎となり、終には善神の定義も不明確が正しいとの定義に様変わりして行った。
何度もくどくど述べるが、我々が宗教から得た「神仏像」は
(一)善なる神仏とは陽性にて真善美そのもの。
(二)概して、陽性なる神仏が善性なる神仏で、陰性なる神仏が邪性なる神仏である。だが、その本性本質は終局に於いて理にてコントロールされており、その性質は相対しているが、相生・比和・相剋等の関係性にて円満なバランス調和を保つと言う神仏。
(三)邪悪な神仏であっても善なる神仏として祭祀されると、「善なる神仏に変身」することが屡々あり、それ故に、神仏が善神仏であるか否かを簡単に判断するのは早計と思われるが、とにかく我々の理解度を超えて、我々に利益等を供与してくれる神仏。
(四)仏教が云うには神道等の神々は天道界・阿修羅界・餓鬼・畜生・地獄界・・・等に住み、鬼道魔道の妖力等を良く駆使する神々の事で「神は神魂、有情の精霊なり・・・・・」等と云われる神々である。言わんとするのは、神々が善悪を兼備する神々であっても何の不思議ではなく、その「神妙の性・神技妖力」等にこそ仏にも通ずる道があると云う事で、善神佛とは終局的に「同一性」であるとの意味である。・・・述べている。
だとすると、神佛の本性論は告ぎの如く定義しなおさなければ不合理となる。
(一)真善美そのものであり、時空を超越し不可視不可知で全ての根源であり、宇宙意志、絶対的存在と言われる神仏。
(二)森羅万象の全てを創造し包括し、更に神仏迄を産出する神仏の母にして教王(父)であり、創造主にして宇宙の主宰者と統帥者と言われる神仏。
(三)神魂精霊等と呼ばれるが、我々との関係の中で神仏の言葉(呪文・陀羅尼・祝詞・経典・宝号・・・等)や神像、神具、仏像、仏具、呪符、神符、祈祷札・・・等にも神仏の加痔力不可思議力妖力霊力等が宿るとの考えから、万象が全て神仏の現象と云う汎神論的考え、万象(本体・姿容・作用)の全てに霊力霊性(善性・仏性)があるので、何れは悉皆成仏とすると云う成仏論的考え、神仏神々仏達等の優劣を論じる階級論、佛身論や本地垂迹説らの考えによる神仏。
(四)善悪何れに属するかは不明だが神妙なる不可思議力があり、人々に祭祀されれば善神仏となり、護法身や智福神等になる神仏。
(五)人霊、動植物霊、精霊、邪霊・・・等の中でそれ等の持つ妖力、功徳力、効験力、高徳、慈善・・・・等が一段と優れておいるとの伝説風聞にて、神仏として後に祭祀された神仏、或いは各種宗教の祖師、開祖、開教祖等が敬信したり宣布したりした神仏。
(六)我々の先祖が宗教とは無関係にて継承してきた神仏。・・・・・・・である。
さて、上記六項目は何れも歴史的淘汰にて、これ等の神仏が説いた法が正道と云えそうだが、そう簡単に定義出来るものではない。歴史的淘汰も人為的な取捨選択もあり、その時代に迎合している為に必ずしも正道とは云えない。宗教はありのままなる多様性の容認でなければならず、どんな宗教にも完璧なものはなく、歴史に契合しながら発展段階を指し示すものだからである。我々日本国民の寛容と曖昧性は世界でも冠たるもので、独自の宗教的寛容観をも身に付けたことは注目に値する。
それはさておき、前記(一)(二)は仏教系が云う理法身・智法身・理知不二法身・・等の説明でもあり、神道係云う創造神・絶対神等でもあり、朱子学が云う「万物を主宰する理」でもあり、哲学、物理学、科(化)学、倫理学・・・・等が言う宇宙の根源・宇宙意識・宇宙の最高精神、最高の人格神、宇宙の摂理・・・・等呼ばれる真理そのものであり、我々の認識創造の範囲を越えて、尊大且つ絶対法であり、全ての摂理の主宰者として「存在も無く、無でも無い」人智を越えた「存在無き存在」であり続けるものだからである。
前記(三)の神仏になると、我々人間と深い関係があり出現した神仏等を言うのであるが、宗教側の説明では、本来法性身(理身)ではあるが、人間との「救済慈悲」を媒介とした関係に於いて、慈悲や智恵の何れかを具現した報身、応化身等であり、応化した神仏である。つまり、我々の心の悩み親しく救済してくれる神仏であるので、我々の悩みや願いに答えてくれる最高の人格神だと言われるが、これ等の人格神には我々を救う為の慈悲と方便(智恵)や手段、その為にかなりのテクニックが必要となり、我々を救うと言う行為は、未だに未覚醒である神仏が最高の人格神(覚者)となれる為の菩薩行でもあり、既に悟りを得た神仏にも課せられる五大願(衆生無辺誓願度・福智無辺誓願集・法門無辺誓願学・如来無辺誓願事・菩提無上誓願証)の一つでもある。最高神の来迎とは、我々の信義に報える為に「慈悲と智恵」に拘り(有情)があって、応化してくれた神仏となるという意味にも解釈出来る。又、常に我々の機根に応じて対機説法を行い飴と鞭にて我々を叱咤し、育ててくれる神仏であり、この意味に於いては宗教の正道としての神仏であるが、我々を方便(神仏の智恵)にて教化引導する限り、我々は常にその真意を曲解しないように精進努力する事が肝要となる。又神仏も我々を救うという行為をなす限り、各々人間に即応した姿容に変ずる必要が有り、当然神仏もその環境下にての制約を受ける事となる。神仏は我身と信仰者を護る必要が生じ、護法身、守護神、眷属・・・等を引き連れ従えた神仏となるのであった。
(四)の神仏とは本来邪性であるが、その中でも特に魔力妖力妙力神通力・・・等が偉大で(一)(二)(三)の神仏の教化、教導、指導、制約・・・等のもとに守護神・護法神・指導神・福智神・・・等の善鬼神として君臨する神仏のことである。この種の神仏は日本の俗信仰の神々であり、至る処に遍在し祭祀されている。村の鎮守や寺社の境内の一部に、村の道路脇・山頂。沼池の辺・・等各所に遍在し祭祀されている神仏達の事である。本来の姿形は勝軍地蔵菩薩だが、愛宕神社の祭神(火伏の神)となつたり、猿田彦神が、道祖神として道路の辻に祭られたり、塞神として崇められたり、山神・妖怪・蛇蠱・孤蠱・怨霊・・等を鎮魂の意味にて明神等として祭祀されたりしており、このような事柄は、我々の歴史に於いては日常茶飯事にて一事が万事なのであった。邪性であると云う神仏とは、前述の如く、羅刹、夜叉、屍鬼、障鬼・・・等とも呼ばれ、魂の存在ではなく「肉体の無い霊性的邪念・観念上の存在・悪鬼・障気」等と見なされているが、他の生物に憑依し、血肉を喰らいて精気を貪り喰らいて戦闘を好み、邪悪で横暴なる行為を渇望し、坐逆非道の輩(霊性)で、我々の魂を弄ぶ性情があるとも云われる。だが、その特性を(自然の摂理としての存在)利用すれば、我々の欲望を満たしてくれる事(神)となり、人間との取引を得て、財神・福智神・寿禄神・技芸神・五穀豊穣神・式神・武神・守護神・調伏神・生殖神・・・・等のあらゆる善鬼神として君臨し、存在するその数数百万超といわれる神仏達の事である。宗教の正道神としての存在意義も有していた。
前記(五)(六)の神仏とは何らんの形でこの世に生を受け、死後に神仏として祭祀された「人・物・動物・植物・その他(妖怪・化物・幽霊・精霊)・・・・」の霊魂=霊性等を、本来、善性なものだけでなく魔性邪性であるものを含めて云うのである。その妖力霊力等は前記(四)より弱く、而も、千差万別なものを云う。宗教的に云うと、霊能力者、宗教的先駆者、体験体得者・・・等であり、宗教側や庶民側双方から、現実味と説得力等があって信じるに足ると烙印を押された神仏達である。その内訳は、諸宗教の開祖や宗祖の神格化されたものが殆どであるが、全く関係の無い意生や化生等も多々神格化されている。神格化された神仏とは、釈迦と同じく等流身や変化身等と呼ばれ、何等かの象での宇宙意志(宇宙の根源=理法身)の慈悲や智恵の現れであり、それ等の生まれ変り等と表現されて、肉体的制約を越えて神格化された神仏であり、その「教道・霊力・法力・説法」等の内容も重要視され、後に哲理にて裏打ちされて、深遠神秘、荘厳尊厳等の中にその現実を覆い隠され、地域差時代差があっても、人々敬信され創造された伝説上の神仏なのである。其処には少々悪鬼神の意味も変革され、仕事の鬼や文化の鬼・闘鬼としの軍神・・・・等称される神々も存在した。
特に仏教の開祖「仏陀」としての「釈迦如来」は神格化され、真の解脱者として「超生命体=理法神=宇宙の根源」等と同体となった世界唯一の悟りを得た人間となり、仏教の佛身論では等流身呼ばれ、宇宙の根源・宇宙意識らと同化した、覚知した人であり、証明者であり、真の解脱者としての代表者なのであった。
さて、こうして見ると、我々死後の往生の場所とは
前述(一)の神仏の御許に帰る事を理想としなければならないが、我々には恐れ多く、かけ離れた存在にて現実味がなく、空々漠々たる存在である。此処は選ばれた者のみが行ける、極楽浄土を最下位とする境界にて「即身成仏(顕徳成仏)・専心成仏・即時往生の世界」等にて、望む神仏の如何なる処にも自由に往来で切ると言う、極、稀に行くことが出来るとされる「恵まれた者達」にのみに開かれた、解脱者や近似解脱体験者達等の限られた者達のみが、自由に往生出来得る極上の世界なのであった。
前述(二)(三)の神仏は我々を救済せんと慈悲と方便(智恵)を媒介とするが故に、より我々が感得し易い神仏である。それ等の神仏には各々の佛国や神国が用意されている。浄土往生・極楽往生・桃源郷・天国・神界・・・等で、往生要集を著した源信の言う十方往生の世界(多神仏の浄土)にて、源信の観念往生、真言宗の空海の即心成仏・理具成仏、禅宗の即心成仏、天台宗の華厳往生、道教や神道の仙界や神界(高天原)・・・・等の世界なのであった。
前述(四)(五)(六)の神仏は霊性的存在にて他に憑依する事から、より現実味があるが、弥勒菩薩の再来を待って往生する都率往生的世界であり、我々と同じく輪廻転生を繰り返しながら迷い続ける霊界であり、加持成仏・刹那成仏・神懸り・霊憑き・・・・等世界なのであった。それはある一面では、死後にも我々の魂、若しくは霊性としての存在を認めて、我々の現世生き方を糾す事を意図した方便でもあった。又それは極楽の雰囲気を一時だけでも体感できる空海の言う刹那往生の世界でもあり、又何度も繰り返して習癖となった世界、多神仏の浄土の往生をイメージさして、其処に誘うものでもあった。
何れにしても、我々は大聖釈迦が涅槃経に言うように、良く磨かれた智恵(情智と愛智)を以って、それを灯火として、自ら信ずる道を踏み外す事がいように照らしながら、無明の闇の中を一歩一歩、自らの心を灯心として、孤独に耐えて、誰にも頼らず、孤独の道を歩み続けよ・・・・・というのが結論なのかもしれない。釈迦は冒頭にて「誰に依るベ、誰に依るベ、良く磨かれた己こそ・・・・・」答えるのであった。
チベットに「死者の書」と意訳された密教書が伝わっているが、その内容に従って、生前に「六法の修行」を勧めながら、生前にも死後の世界を熟知させ、特に死後の我々の魂に「中有=浮遊期間」の四十九日間に死者に耳元にて、魂の行く先のガイドを行う密教僧の姿が今もチベットでは多く見られる光景なのである。真偽は別にして、死者の書の内容と、臨死体験者達による臨死体験の様子等を語りし証言と一致する部分も多く、人間の死を往生に此処まで最善を尽くした密教書やそれを忠実に実行する密教僧達の存在も近来稀に見る貴重な存在である。死者の書については嘗てNHKテレビにても取り上げられ放送されたことがあるのでここでは省略致します。稀に見る宗教の正道にて「我々の魂の行く先(往生の行き先)」を具体的に示したものとして一考に値すると私考する。
だが、唯識が云う「習癖」による臨死体験等は、死後我々の魂の行く先(往生)をそれによって限定される事を恐れての事なのかもしれない。だが結果は我々の死後の「魂」の輪廻、輪廻の入口としての「中有=中陰」を認め、死後の魂=霊性の存在を認めた事には疑問もあるが、又習癖による幻想もあろうが、誰も行ったことの無い不可視な世界であり、臨死体験者の話を頼りとする世界なのでもあった。
少し余談となるが、仏教の世界観と輪廻の概念に少し触れて見たい。
仏教の世界論は周知の通り須弥山説である。古代のインドでは大地の下に地獄があり閻魔王の住所とする八寒八熱の十六大地獄がある。地上に須弥山があり、その四方(四大州)の南に人間の住む処の南贍部州のみがあるが、他に東勝身州・西牛貨州・北倶盧州がある。これ以外は海で海水が零れないよう山があり、その外にも大鉄囲山が取り巻いている。地上の上に欲界と色界の天界があり天人が居た。欲界には六種(界)があり、須弥山の頂上は大地で四天王衆天がある。山の真中には三十三天がある。空中に浮かんでおる下から夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天の六欲天がある。色界天は四禅天に分かれ、初禅天に梵衆・梵補・梵天の三天、第二禅天に少光・無量光・極光淨の三天がある。第三禅天に無量淨・少淨・遍淨の三天、第四禅天には無雲・福生・広果・無煩・無熱・善現・善見・色究竟の八天がある。色界の最上階は色究竟天である。無色界とは精神のみの世界であるが、欲界・色界・無色界を三界として、有情(全ての生き物)の輪廻する場所としている。欲界には男女の別がある。初禅〜四禅に達した修行者でも悟りを得ないで死ねば輪廻転生する世界であるが、天界での寿命や身体の大きさは上に行くほど長くなると云う。大地は虚空に浮かんでおり、それを支えているのが巨大なる空気の渦である風輪、その上に大地を背負っている金輪があり大地の根底である。つまり、先に述べた四大州・日月・須弥山・六欲天・梵天が合わさって一つの世界となる。この一世界が一仏世界であるが、それが無数に集まり三千大世界(一宇宙)となる。他の三千大世界も無数にあると説明している。
一つの三千大世界は同時に生じ同時に滅するとする。世界も無常だからである。地獄に生じる有情(衆生を含む全ての生類の総称・情識を有するもの・薩?の訳語)がなくなると地獄は不必要となる。有情に善心が生まれ時間を経て上界に転生出来たなら地獄は破壊する。そして順次、畜生・阿修羅・人間等も上界に転生できるが、終には、この世界は空無となる。風火水の三災が起り、風に飛ばされ水に流され火に焼かれて破滅する。つまり、その世界に住する衆生があれば、彼等の「業の力」にて器世間(輪廻の世界)が維持されるが、住する有情が居ないと業力(煉縛する力)もなく物質の結合は破壊されて極無極微の世界になり虚空に浮遊すると云う。世界の始まりから終るまでが壊劫で二十劫を経る。空中に浮遊している状態を空劫と呼び二十劫を経ると云う。再生のプロセスは第二禅天以上に居る有情が善業を失いそれを怠ると、梵天(処禅天)以下に転生すると「業の力」が働き、風が起り、風輪が成立し、順次器世間が成立して行く事となる。これが成劫で二十劫を経る。この世界が続く期間が住劫にて二十劫で、次は壊劫である。宇宙はこのようして「成住壊空」を繰り返すのが宇宙の破壊と生成であると云う。
次に、往生の対象である「輪廻」については、上記世界にて衆生は転生しながら生死を繰り返す事を輪廻と言う。六道輪廻(五道輪廻)(地獄餓鬼畜生阿修羅人間天で阿修羅を除くと五道)である。有情の生まれには卵生(鳥類)・湿生(虫類)・胎生(動物)・化生(天界の生物)の四生がある。生まれる刹那が生有、それから死までの中間が本有、死の瞬間を死有、死有〜生有に至る中間が中有で中陰とも言われており、微細な五蘊で霊魂的なものである。この時期は転生の場所を求めてさ迷う霊魂とも云われている。中有が母胎に宿る瞬間が結生の識、十二縁起の第三の識支である。母胎の中からは羯邏藍・?部曇・閉尸・鍵南・鉢羅奢卑?の順に成長して生まれでる。それから嬰孩・童子・少年・盛年・老年を経て死有に到り、無限に生じを繰り返すと云うが、輪廻の生存には始めは存在しないのである。・・・・等が仏教の説く、我々衆生の往生ではなく、輪廻なのである。