(三)日本の心に棲む鬼道
 前章迄にて、我々一般大衆が[鬼神達]との付き合い方の畏怖から相互依存へと変化し、鬼神達が福の神に変じる時、その過程に於いて[鬼道存在の謎]があることを発見した。又、宗教側からは[時空を超越し、宇宙の根源としての神仏]等を説く宗教が、民族的信仰の対称である神々や精霊達や他の宗教等の神々等との[融和・統合・整理・排斥・紛争]等の淘汰の過程に於いて、その矛盾の解決策の中で我々との関わりに於いて[鬼道存在の謎]等があった事を発見したのであった。
 そこでこの章では、これ等の事柄が現代の我々の心(大和魂)にどのような姿にて棲み込んでいるかを検証したい。つまり、宗教が云う三悪業「貪(貪欲)・瞋恚(怒り)・害痴(愚かで他を侵害する事)」が、三悪業(身悪業・口悪業・意悪業)となって、三悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生界)に堕ちるとの真意(方便)を確かめたいからである。
 さて、我々は戦後40数年を経て、アメリカの庇護のもとに民主主義・資本主義・科学文明物質文明等を発展させ物の豊かさを謳歌してきた。それは「物の使い捨て時代」と評されるまでの発展を齎したのであり、極最近までそれが続いていたが、バブルが陰りを見せ始めてからは、やっと、物の大切さに気付き、リサイクル活動等が芽生え始めた作今である。
 我々日本人は此処最近、従来から培ってきた節約の美徳や価値観、道徳概念の大半を喪失したり忘却したりしたと思われた。又、その人間性は他国からは世界一の非常識人とまで評されたのである。
 諸外国との貿易に伴う経済摩擦等のトラブルは日本が世界の孤立国に為らない為の冷水でもあり、日本人の行過ぎた高慢に対する警告でもあった。共産主義諸国の崩壊は米と露の武器による抑止力の冷戦時代が一応の終焉するかと思われたが、一部の国々の内紛や民族戦争、宗教戦争、経済戦争・・・等々を顕現化させた。その上、異常気象等の自然災害も手伝って深刻な経済不況(デフレ)に見舞われた。其の為、我国も内需拡大政策を余儀なくされ、世界情勢の急激な変化は、世界の諸国の多くは、今だ夢去らぬ状態にて停止し、弱肉強食時代の抑止力にてのバランス論の神話を頑なに誇示している。又、一部の先進国では、未だ、植民地的施策や外交政策を飽きもせず繰り返しているのも事実であった。
 少し余談となるが日本霊異記に興味ある話がある。
 河内のある富豪の家の娘が桑の木に登り、桑の葉を摘んでいた。其処へ大蛇が来たので驚いて、娘は木から落ちて気を失った。その間に大蛇は娘と交わり小さくなって女陰に入り込んだ。娘の親達はその事を知り、気を失っている娘を家へ運び、事情を説明して、薬師を頼んで治療してもらった。薬師は黍の灰を三束用意させ、水に溶かし、黍を煎じ込んで於いて、その中に猪の毛を粉状にして混ぜ合わせた。この薬は煎じ詰めてニ斗作った。娘の足を頭に縛ってから、そのまま杭に吊るした。そして娘の女陰に薬を流し込んだ。薬が一斗入ったとき大蛇が女陰から出てきたので捕らえて殺した。未だ女陰の中にいる蛇の子供は、固まって蛙の卵のようになり猪の毛が刺さり死んで出てきた。
 全てが終了した時、娘は目を覚まし「夢を見ているようでしたが、正気になりました」・・と。その三年後に再び娘は蛇に襲われ交わられ、「私は死んだ後、来世で必ず蛇と逢う(添い遂げる事)でしょう」といって死亡した。・・・と。只の神婚譚にしては治療の具体性に驚きである。
 この話のオチは、何処かの国の社交術やゾンビパウダ、カルト宗団等の洗脳にも似た禍々しさがあった。
 それはさておき、マスコミ等の発達にて、今迄覆い隠す事が出来た、各国の秘密や事件等も瞬時に報道され暴露され、過去の問題を含めて各国の諸問題を顕現化させて、難問題等を提起さしていった。
 そしてそれは、島国日本の有るべき未来像迄をも決定せんとの潮流となって来た。世界視野にての多国間への配慮や環境問題・・・・・・等々を考えねばならなくなってきたのである。
 私考すれば、日本の将来は農業国では無く「経済情報産業技術立国=頭脳立国行=技術立国」、或いは「観光文化立国」等を選択する必要があると思われた。だがそれは、従来の政治概念、官僚主義、画一主義的行政等の改革、国民意識の変革なくしては達成できる見通しは遥か彼方であった。其処にはどれ一つ取っても日本の教育同様に独自の個性が良い方向に磨かれない環境だったからである。
 進むべき方向性は、従来の政治概念を大変革し、無駄な規制を最大限削除し、省庁別の申請書類を統一簡素化して、国民の意見を吸収しながら産官が一丸となって協力し、産業構造の改革や流通革命、情報網の整理・・・等を肌理細かく模索しながら、独自の経済体制を構築し、日本の技術を生かせる産業技術の開発可能な環境基盤を早急に作り上げねばならないからである。
 又、諸外国とは経済協力や経済支援よりも人的交流、文化的交流を優先しながら、お互いの文化を尊重し友好を図る努力が必要である。又日本人には今一つ国際人としの教養とモラルが必要である。国際社会人であり、而も、日本人としの誇りが必要だからである。我々はこの意味を含めて実に重大な岐路に今立っている事となる。
 つまり先にも述べたが、今我々は「共生と輪廻と循環」のモラルと哲学が必要なのかも知れない。人間味があり、人格者で、極普通常識人である各種専門家の斬新なアイデア-を持つ人々の育成が今必要とされていると云うことである。
 ※今迄述べた事から、我々が結論として推論できることは、「光から生れしものは、又光に戻れると云うのは虚言である。或る条件下(活性炭・チタン合金の板状)等にて、穢れた物を置くと、光触媒(太陽光が当る)により元の正常(水なら穢れない水に戻る)なるものに戻りうる」・・・と言う言い方が正しい云い方であると思われる。同様に「神仏に創造」された我々は、又、神仏に戻れる、神仏になれるとの意味は虚言である。或る条件下(正しい努力精進禅定恕(修行)では、信義を通して、神仏と感応し、神仏の加持力(慈悲光・智恵光)等を得て、元の(本来の)心身ともに健全な人間に生まれ変われると言うのが、正しい結論であり、真実なのかもしれない。これが奇跡なのである。 この考え方にての技術の開発や思想や実践哲学・・・等が、混迷する日本や世界を救うと預言出来るのである。
 確かに、今世紀に入り、紛争・動乱・戦争・差別・殺人・テロ・自殺・自然破壊・自然保護・核兵器・公害・異常気象・天災飢饉・地震津波・超常現象・経済不況・・・・等々がマスコミにて報じられ、犯罪テロも低年令化しており、日本を含め世界は一体如何になるのか不安になるのは当然かも知れない。
 筆者も同様だが、社会が悪い、政治が悪い、日本人の先祖悪い、環境が悪い・・・・・等と他人毎のように嘯ける文化人の中からは、現代日本の考えを象徴する平和惚けした人間模様しか見ることは出来ない。更に、彼等に相談する事も、頼る事すら疎まれ、却って、大切な時間を浪費するだけ損だからである。
 或る質問を諸国間の対応を例にとり、主義主張の差異を検証して見ると、概して次の如くと要約できる。
 後進国からの主張 「悪行の全ては且って先進国が行った過去の悪行の結果である。故にその責任は全て先進国が負うのが当然である」・・・等と主張する。更に「我国の国状は貧しくて窮迫している。其の為に或る程度自然破壊の認容と、その他の事柄も寛容容認すべきものであり、それを解決するためには多大の援助が必要であり、それは我国の国状からは無理であり、止むに止まれぬ行為である・・・・・」と。
 先進国の一部の主張 「我国はこの度の天災、飢饉、紛争、テロ、不況・・・等により多大の打撃を蒙った。国内では国政の急激な変化にて、混乱しており、国民の信頼を取り戻すのが優先課題となり、政局の安定に憂慮しなければならない国状である。我国の現状と経済力では支援したくても出来なくて如何ともし難い。御存知の通り、核兵器や破壊兵器等も放置したままの現状である。何とか富裕国間で話し合って然るべき援助を行って欲しい・・・・」と。逆論的強迫論までぶち上げる始末である。
 日本の文化人達や政治家達は「如何にすべきか等の問題」は後回しにして、事の善悪論に始終する。果ては法律に規定は無い等と対応を建前論として躊躇するが、国内と国外との二枚舌にて対外的外交は全て自虐史論的輩に諂い、バラマキ援助施策を以って我国の外交術としており、一貫した国策が無いまま惰性にて進行している感がある。
 日本の社会が銃社会で無いのがせめてもの救いではあるが、現代社会はそうとも云えない位に銃や麻薬、無差別殺人、残虐残忍な殺害等が氾濫し殖え続けている。
 此処で、今改めて、戦後アメリカ人の巧妙な洗脳を受け、一時期、自虐史感の教師達や指導者達が持て囃された。後に、民主主義への反発分子が生まれ、共産主義的文化人等の社会主義的洗脳者達にて、更に、日本の人間性迄を喪失さされた。その失われた「大和魂」なるものを問い糾し、もう一度思い起こして見る必要がある。
 且って、西欧ドイツのゲルマン魂を「奇跡」と呼ばれ、日本の大和魂は「神風」と呼ばれていた。神風とは第二次大戦の時、武器も無く、食料も尽き果て、帰還する燃料も無い極限状態にある日本を救わんとして、特攻隊に志願し、人間魚雷となって敵艦に、飛行機の機体ごと体当たりして、日本の不利な戦況を勝利に導かんと命をかけてくれた「花と散った日本の勇敢な若者達」の悲哀を、西欧人の魂は勿論、日本人の魂迄をも震撼させた「彼等の勇気」に、我々は憐憫と驚愕と賛辞等を含めた悲喜交々の感傷に浸りながら、戦争の非惨を思い起こしながら、戦争の終結を早く迎える事が出来た功績・・・・等々を、感謝と賛辞を込めて「神風特攻隊」の異名を送ったのがその名の謂れである。
 因みに神風とは、我国では鎌倉時代に蒙古襲来(元寇)の時に暴風(台風か)が吹き荒れ、蒙古船団を壊滅さして我国を蒙古襲来から救った暴風(台風)を神風と呼んでいた。
 その神風をもう一度吹かせたいとの我国の切望の儚い夢を「特攻隊の若者」に託して、冠した名前でもあったのである。
 さて、このような日本「大和魂」は一朝一夕に出来上ったものでは無く、とてつもない長い時間を経て構築されたものなのであった。日本古来の神道、中国の道教や儒教、インドの仏教・・・等の思想がほどよく融合しあい、日本の風土に適応し、日本の歴史・文化・経済・社会・政治等にて程よく熟成して「大和魂」を形成したと思われる。それ等は我々の心に「和と清貧・忍従と忠誠心」等を美徳とする国民性を養い、他方「呪詛法」等に於いて、敵討ち、因果報応の理、自戒心、信義・・・等を養いながら、ストレス解消する「活力源としのエネルギーの分与」をされながら、悪きものは淘汰され培われて来たものが、「大和魂」なのであった。
 何度もしつこく繰り返すが、
 仏教とは周知の如く、釈迦が紀元前5世紀頃に開教したものだが、その当時インドには「ブラフマン(梵天=大自在天)等を主神とするカスト制度を肯定する「婆羅門教(バラモン)」や、それに続く「ビシュヌ・シブァー・ブラフマン」の三神崇拝のヒンズー教・・・等々があり、民間の俗信仰の地母神ヤクシ-や地父神ヤクシャ-(夜叉)等多くの神々が存在していた。恰も、日本の神々と同様の八百万神々の様相であった。
 それ等の神々を「宇宙真理から出発した死生観「四諦・十二因縁(縁起)・八聖道」を用いて「倫理的宗教」に編成したのが「釈迦の仏教」であった。
 釈迦の出生に対して「マヤ-の夢・夢占い・誕生・宮参り・・・・」等の神話やドラマ、後に四天王となる四人の従者、地母神ヤクシ-迄登場する誕生から覚者に成るまでのドラマは「完全無欠な宇宙真理」=「完全智、完全慈を円満具足する完全人格神」等となる事を理想とし、そのものと感応合一を果たせし者が=覚者として、人々に同じく覚者に至る道=覚者道を説いた伝説上の仏陀釈迦に相応しいものとして語られていたものであった。更に、釈迦は人間として生まれ、覚者(悟れし者、如来)となった世界で唯一の実証者であった。其処に、我々人間にも又、覚者になれるとの夢が彼釈迦によって齎されたである。
 聖徳太子が十七条憲法の「和をもって、尊しとすべし」と言う「和」の思想は、この仏教思想を基底として、道教や儒教、神道等の思想とを織り交ぜて作られた物である。特に仏教思想の中にある「佛法僧の三宝に帰依する」と「四恩十善の教え」とは類似しており、「祖霊の祭祀法」等と「乞食、清貧」等はある面では道教・儒教に相通ずる面があった。それに「善因善果・悪因悪果の因果法則」等と類似する「縁起論」等が加味され、更に、中庸・仁・積善立功・寛恕・節制・忠孝・無為自然・・等に儒佛道の倫理概念を加えると、「禅の思想にも似た武士道」等の活淡謙譲の徳等を信念とする思想も出来上がるのであった。これ等も「大和魂」の構成要素の一つと成って行った。
 前述の釈迦が成道(悟る)の時に、多くの悪魔達が登場し釈迦の常道を妨げようとするが、其処に登場する悪魔達は、不思議な事にインドのベーダ(リグ・サマー・ヤジィル・アタルバ)最古の聖典には多くの神々、祭祀方法、呪文等を説く」や神話、古来の説話等に登場する神々達であった。又、釈迦の法難として描かれている中に、釈迦の眼前で釈迦族を弾圧し殺戮した王、象にて釈迦を踏みつけ殺そうとした同族のダイバダッタによる敵対行為・・・等が、法難、受難等の思想も混在していた。又、真の覚者なら「人の命を助けられだろう」等と云われ、釈迦の目前で、次々と同族のものを殺して行く王に対して、じっと耐え忍ぶ釈迦は、最後に、「王貴方火難にて死ぬだろう」と預言したとも、呪詛したとも云われており、王は預言通り、舟遊びの最中に火事にて死亡した。だが、人間、釈迦の苦悩として語り継がれている。又、インドのカスト制度階級差別に反発し差別無き平等社会の実現を理想とした王族釈迦(アーリアン族)への自ら招いた法難とも謂われているが、差別無き平和社会の実現こそ釈迦の開いた仏教なのであった。
 さて、儒教は孔子(紀元前515年〜479年)を祖師と仰ぐ宗教であるが、彼の思想は「仁」を磨く為の精神修養(徳行・仁道)を第一義と説き、「中庸」を体とした「孝養・忠孝・寛如」等の「仁道」による処生術を教えた。それは「君子道・天子道(王道)・仁道」等とも謂われるが、徳行(仁道)無き「王道」には天命(天の裁き)を用意し、革命が起ると言う天子説を用意した。後の中国流中華思想や社会の革命思想の根幹となった思想であった。
 わが国日本では、極最近まで儒学や陽明学、朱子学・・・等は珍重され、大いに研究され重要視された。又中国同様「官吏登用試験の必修科目」等であった為に、学問所等も多く出来持て囃された。
 特に「忠孝」は君(時の支配者達)に対しての忠節忠義絶対服従等の意に様変わりして、支配階級に利用された。又、五常「仁・義・礼・智・信」の「仁道」の足枷はカスト制度にも似た階級制度の定着化を促し「忍耐・寛容・堪忍・寛恕・忍従」等の下に美徳美化されて行った。孔子が天子説にて預言したように「下克上」等も天命として美徳とする危険な風習も内在していた為に、彼等支配階級はそれ等抑えるのに苦心惨澹したようでもあった。
 日本には古から、天皇を現神として崇拝し、権力者支配者達を「お上」等と称して拝める思想があり、それ等は更に美化され、父権の確立(それまでは女権)を容易にし、日本の「大和魂」に「忠誠心・孝養心・堪忍」と等をブレンドしたのであった。然し、自虐史観者が言うように女性の地位は低い事は無く、時代の女性は、特に、戦国時代であっても、かなり身分は高く、人生を謳歌していたようであった。
 さて、道教は孔子と同時代の周時代、楚の老子とその弟子荘子を開祖とし「無為自然」を尊び、宇宙の根本原理との刹那的感応=同一化を希求しながら、不老長生と不老不死なる「神仙への道」を示唆して、それを最終目的とする宗教であった。道教の自然に即した生き方は現代の我々も見習わねばならないこともかなり多い。その説く処は「調息法(腹式呼吸法)・房中法(セックスの仕方)・養生法(食事療法)・薬餌法・煉丹法(薬草丹の作り方・鍼灸・気功法)・錬金術・・・・」等々多岐に渉り、医学・科学・哲学・倫理・巫術武術・・・・等に多大の貢献したのは既知のことである。その神仙思想は不老不死を得た神仙の棲む桃源郷(蓬莱山)に行くことを理想とし、人里離れた山に分け入り、過酷な修行、清貧節制、積善立功・・・等を戒として仙人に成ろうと懸命に努力したようであった。蓬莱山が何処かは高天原同様今も不明である。
 この等の影響にて、我々の先祖は、世の不満を無情観として把捉し、出世間(僧になるための出家)等と云い山に入る為の修行を、隠遁隠棲と同意義と解釈し、厭世思想等を俗苦から離れる事と美徳化し、「山岳信仰・山岳宗教・修験者等や、極楽浄土(阿弥陀様の浄土は西)の方向に向かう西行法師等、又・隠棲者等の竹林の賢人、・隠遁者の兼好法師等・・・・」等に憧れたりして、このような輩を多く生み出し、神秘性あり、教養あるもの達としての風潮を拡大して行った。
 又、反面貴族や時の支配者達は、山に入った仙人(道士)等紛いの者や修験者行者達の駆使する「妖術・幻術・祈祷・マジナイ・霊能力・体術・山岳の知識・・・・」等は「武道・軍略・策謀・スパイ活動・情報収集・・・・」等に利用価値があるとされ、貴族や武士社会に於いて多く利用された。それは一種独特の雰囲気を持つ「戦闘的活淡的ニヒルな人間性を持つ人間(忍者や乱波)」等を多く作り出したとも云えたのであった。又、それは武士気質や名人気質に通ずる面もあったが、中には鼻持ちならぬ独善と頑固と高慢を持つ奇人変人をも育てたようであった。
 我国の神道は、高天原から降臨された神々の直系が天皇であると云い、我々もその卑属であるとの思想が教えた。即ち皇祖信仰である。我々も死んだら皆神の御許に帰れるとの意味から、死ねば神として祭祀された。これが神道である。
 既知の通り、幕末の尊皇思想にて明治時代となり、天皇は万民の統帥としの現人神的存在であったが、昭和の敗戦後、天皇は国民の象徴となったのである。元々、神は我国に不浄無き神国を実現しようとし、不浄を禊祓いにて清め、人民の苦難を我が子の苦難として救済してくれる心優しき祖先神(氏神)なのであった。
 皇祖神として伊勢神宮に祭祀されている天照皇大神(アマテラス)は前述の通り、光の糸にて布を織りその模様にて世界の運行(暦)や我々の運命までも司女神様であつたが、天岩戸にお隠れになると言う人間味溢れた女神様であった。又、神々の国造り、国譲り、支配隷属の仕方等は極めて人間的で、ややギリシャ神話の神々とも類似しているが、ギリシャの神々のように陰湿な策謀をしつこく繰り返すこともなく、むしろ天真爛漫であった。そして何事にも大義名分があり、人間的感情と悩みがあるが、穏健性、曖昧性、寛容性、墾田性・・・等を兼備していた。
 余談となるが、人間が権力獲得のプロセスの中で、H.G.ウェールズは「権力獲得に至る規則と法則は人間の行為の中で極めて重要なものである・・・」との指摘は、この神道と現代人気質に於いては的を得ていない。何故なら、戦後の民主主義下にての平和惚けは政治家と権力者達をして「自由・平和・平等、男女同権、差別無き社会、福祉社会、戦争放棄・・・・・」等と云う美辞麗句を並べ立て公約し、我々を納得させようとはするが、彼等の言葉には何の実行力も責任能力も企画力等も何もなく、言葉にての殺し文句を云う者達が人気を得る時代となったからである。僅かでも汚い言葉を喋るなら、殊更それを取り上げて、その言葉は絶対悪魔(鬼神=破壊神)等であると彼等は鬼の首を獲ったかの如く云いまくり、非難し、而も、我々に対する偏見と差別等と侮辱による蔑視・悪視・軽視等だとして、何としてもその人達を社会から抹殺せんと画策するのであった。
 換言すればそれはブロの経験や見識、責任意識迄を嘲笑し、嘯くアイドル的輩や中途半端な人間を持て囃し続けて、それ等がリーダーシップを取る社会を「良し」と我我が肯定してしまったからである。
 日本人本来の気風は「寡黙で不言実行型、弁解を善しとしない気風」等であり、「弱を助け、強を挫く」等が大和魂の一部であった。
 和辻哲郎博士はその著「風土」の中で、日本人の性格は「モンスーン地帯における台風的性格」だと説明している。又、これを受けて、京大の会沢教授は「京女に東男」を「東女に京男」と置き換えて比喩し、その著(東女に京男)にて日本人の感情は、関西人は「しめやかな激情」を表としながら、内に「戦闘的活淡」を秘めており、関東人はその逆で「戦闘的活淡」を表とし、「しめやかな感情」を内に秘めると説明する。故に理想のカップルは俗に言う「東男に京女」ではなく、むしろ「京男に東女」の方が相応しいと揶揄して言うのである。
 所謂、真の意味で日本男子の「大和魂」と日本女性の「大和撫子」のカップルに相応しいのは「東女に京男」と言う意味であろう。筆者も同意見であるが、夫婦としての自覚とお互いが共通の目的意識を持ち努力しあうと言う「さりげない行為の持続」等がある場合においてのみ、理想カップルの姿があると思われる。だが、現在、日本神話等に語られる神々の性の乱れへの復古か、西洋かぶれかは不祥だか、セックスやそれらに付随する倫理観の乱れは目に余るものがある。小学高の高学年から異性を意識し、早、中学高校の半数以上の男女がお手々繋いで帰る姿等は、昔の汗と涙の青春時代を歐歌した風潮は微塵も無い。賢人達は警鐘のラッパは吹くが、自己管理を美徳としない現代人気質の「突然切れる」には教師も黙認し、教師の指導力不足も相俟って、本人達は馬耳東風にて、何の悔悟もなく恥かしさもない有様である。困った事にそれ等の非行不良等を有る文化人達は、咎めるところか、反って、必至に持ち上げており、筆者から見ると、まるで異邦人と遭遇している感は否めない。
 さて且って、諸宗教は次の如く我々の魂に呼びかけて来た。仏教密教神道からは、万物に善性を有しておるとして性善説を主張した。そして、諸行無常の諦観にて、生死の苦楽を超越し、八正道にて涅槃(ニルバーナ=煩悩火を吹き消した瞬間=悟りの境地)に至る道を示唆した。
 般若心経の呪謁に「行き行きて、又行けよ。(そうすれば)彼岸(涅槃)に到る事を、成就する・・」と。
 それは、生老病死を苦集滅道へと転じる方法であり、修養努力にて、本来具足する善性を顕現さす方法でもあった。生死を超越して宇宙の根源と一体化にて、魂・霊性として永遠の生命を得る事であった。
 儒教は仏教と同じく性善説の立場から「身を治める者・・・・国を治める・・・」等と説き、自制自戒心を美徳とし、五常(仁義礼智信)の修身「四恩十善の教、孝忠養労・・・等」の中に因果報応が有ると主張した。又、徳道(仁道)による君子道(帝王学=天子道)の中に天命を知りそれ等に従い、酒血肉林のような贅沢や人民を容赦なく殺戮したりする暴君には、必ず天罰(天の裁き=天命無し)下ると説き、徳行無き横暴な専制独裁君主等を戒め牽制をしようとした。而も、その要は処世術の最奥義としては「中庸・寛恕」にあると云うのであるから、彼孔子の思想は「人事を尽くして、天命を待つ・・・・」と云う現実に即した人間の行き方を示唆しており、修養によって本来の善性を開発することが、一人前の人間に成れると言う事であり、それにて平和な社会を創造する事が出来ると説き、それが天の理に即応した生き方であるとした。 又、彼孔子は「易経」にて「万物は変易する」と解釈し、仏教の「諸行無常」や西欧の哲学者「万物は流転する」等に類似する思想をも提唱して居たのであった。
 道教は無為自然な生き方を示唆し仙人になる道を教えた。それは恰も、釈迦の弟子阿羅漢達の修行・インドの仙行にも類似はしていたが、悟りを目的として過酷な修行に耐える阿羅漢達とは違い、彼等道教の道士は「無為自然な生き方=道(タウ)=仙人道」が目的であり、生身のままで「長生久視」となり「六神通」等を得る為に山へ分け入り、過酷な修行をするのであり、それは仙人や神仙に成る為の目的であった。
 この意味からすると、日本密教や山岳宗教の行者達や修験者達等が、神々の霊験や妖力等を得ようと山に分け入り、過酷な修行をするのと類似している。又、神仙という考え方は日本にも古くから存在していた仙人も多く、神道の神々にも類似する面が多い。だが、密教等が宇宙の根源、活力源を大日如来とし最高の人格身(神)と見たのに対し、神道の神々は、天地創造神、祖先神等として君臨し、我々との関わりに於いて存在し、又「言葉や音」等にも霊魂(神々)が宿るとのことであり、物にも淨不浄があるというのであり、神々の国には犯してはならない禁忌タブーと言った法則があり、他国の神々と一線を隔していた。
 対して、道教は万物に霊魂(魂魄=善霊悪霊=気)が存在していると主張した。我々は正気(善霊=生命活力となるもの)を体内に取り入れ(呼吸法・錬丹法、薬餌法・・・等)て、邪気(悪霊=生命活力を阻害するもの)を排除すれば、如何なる怨敵にも害されない強靭な肉体と精神(魂)が得られ、悠々自適となり、自由に仙界に遊べると主張した。つまり、彼等の言う要旨は「空間を区切ったものが時間の流れ」であり、空間は果てしなく時間の流れは過断無く続く、自然との即応とは空間と時間の流れの隙間狭間に「刹那的瞬間的に分け入る事」であり、それにて、六神通も可能となると云うのであった。それは又、宇宙の根源(理)からのメッセージを聞ける(霊媒・霊感)事等であり、未来を見通せる(透視=天眼通)と云う事であった。・・・・との意味らしい。
 さて、神道は我々と同じ血脈持つというが、神々は想いのままに「輪廻転生・甦生・再生・転生転移」等することが可能なようだ。神々の世界での死生観と、我々の抱く死生観等とは随分違うようであり、神々と云えども我々の世界では、他の神々の世界と同様ある程度の制約を受けたようである。この点は或る意味では道教の神仙思想を後に取り入れたと思われる部分が濃厚でもあるが、むしろ天真爛漫なギリシャ神話の神々に近い神性と神技を有していたようである。神道では我々の魂の行き帰る処は全て父や母なる神の御許であり、神として神国に甦生出来るのである。これが我々の魂は死後全て「神として、神の名を冠されて祭祀」される所以である。
 又、神道の神々の体性は「理」ではなく、「光そのもの」と考えていることから、我々の魂も又光(神魂)との合体となるとも云えるのであった。又、神道には仏教や道教に説かれているような「生前の悪業の軽重」等を判じて裁き、六道輪廻等の行き先を決定されると言う思想は存在しておらず、一時期は浮遊霊や放浪霊等と言われ「彷徨するもの」等とは言われるが、浮遊する目的等をはたすと、神(光)なり、神国に甦生すると云う事であった。
 とにかく「七度(ナナタビ)、生まれ変りて、恨みを晴らす」等と云って死んだ楠正成の言葉は、負け戦と知りながらも不正を絶対に許さぬという儒教的正義感と忠孝心、神道の死生観、仏教の輪廻観等を代表し、彼も又神様として祭祀されている。前述の如く、とにかく東洋の神仏と人間の死は双方の合意の上と言われ、我々庶民の「死んだら皆仏だ」と云い、罪までも帳消しされると言う思想等は、我々の感情的死生観等とも符合しているのである。
 其処に、武士の気風として定着した「切腹」は死んで詫びる等の意味の外に、死んで自らの身の潔白を証明する、死んで恨みを晴らす、生きて生き恥をさらすより死を選ぶ、罪人として人の手で殺されるより、武士の情けとして切腹したい・・・・・と。色々な感情が渦巻く死生観等も考えられるのである。
 罪人として島流しにされて死んだ魂でも「一時の島流し」的な死生観等にて対応された。つまり、後に冤罪と判じられると、罪人の魂を祭祀したり恩赦したりしてはいるが、少々拘りがあり、その子孫達が或いは生存している者等が罪人を神として祭祀したり氏神として祭祀したりして、先祖として尊崇すること等が許される為には「先祖(罪人)の連帯保証人」としての役割と責任を果たした後に、祭祀を赦される場合が殆であり、先祖の霊(罪人)に代わって「社会奉仕や潔斎」すれば赦される場合等もあり、事情に応じて時の政府には種々なる掟や規則が設けられていたようであった。古くは、氏族とは同族意識の極めて濃厚な種族であり、氏族の族長は神であり、同族社会の掟としの思想をも定着さしたのも神道のようであった。
 さて、こうして出来上がった日本の「大和魂」なるものは諸宗教の影響下にて深遠にて神秘的で、主観的哲学や禅的倫理概念も追加され、神仏=天皇、主君や主人等を「お上・御上・旦那=檀那」等として、崇め高める事が儀礼化し、集団の統率支配力の増大化に成功したが、短所は「自由な発想が阻害」され、枠に嵌められた人間をも作り出したようである。又、自然を復元する努力も少々怠っていたようでもある。つまり、全てが天恵であるとの思想を押し付けられておる為か、自然の治癒力が未だ期待できた為かは不詳だが、自然との即応と支配に精一杯の努力を怠らなかったのも確かであった。
 高松宮殿下は戦時中の日本人と中国人等の気質を評して「鉄(日本人)・水(中国人)」例えられている(1944・読売)。誠に的を獲た指摘であった。
 だが、現代ではインドが「木」・中国が「水」・日本が「火」と云うそうである。何故現代の日本人気質が「火」と云うかとは、見かけ格好ばかり気にして建前と本音を使い分け、情報に脆く弱く、イザと言うとき煙みたいに右往左往するが、すぐに責任を他に転嫁する現代日本人の気質からは、日本人本来の「大和魂」も無くして終い、未に、共産主義社会主義の神話を信じて、全てに反論するが何ら改善策を示す事無く、何のプライドも品もなく責任感も無くなった指導者達が殆どで=妖誑的鬼道師達が我が世の春を歐歌しているのを容認しているのが現実だからである。 
 且って、宗教は我々庶民を憐れんでか、神仏自らの我々を憐れみ救わんとして「慈悲を発す」として「来迎光臨する神仏」等を用意した。だがそれは、多分に「道徳的世俗的慣習的」で、より人間的な神仏を受容する素地となった。又それは、我々に対して「現世利益・物欲・本能能」等をも満足さしてくれる神仏であった。「真そのものである神仏」と「世俗的神仏」と云う相矛盾する考え方は極めて人間的発想であった為に、互いに調和する事が無く、不二・而二・一如・即・如妙・・・等意味が「近似論・表裏論・本有論・不生論・縁起論・空論・・・」等の煩雑さに於いて誤解されて行った。
 その為、或時は「物質文明」を許容し、或時は「精神文明」を許容しながら、本来神仏の託宣であると主張する諸宗教の根幹思想である倫理哲学等をも時代に即応して変革さして行く事となった。
 それは物と心との一体不可分の関係に「平等と差別・隷属と支配・智と理・順応と従属・・・・」等の考察を試みた結果であり、各々にその価値観を加えて、文明を交互に「変革・崩壊・再生」等々を繰り返し、それを「発展・進展・発達・・・・」等と何の悔悟も反省もなく美化したからであった。 このことは逆に物の発達史に比べて、それに追随する我々の精神史の発達が遅速となり反比例さす事になって行った。
 換言すれば、神国としての誇りと自負心に、外来の諸宗教教団が自らの敬信する神仏の国等を地上の楽園の様に宣伝した結果、我々の「大和魂」の一部に恐怖の宗教教育と集団催眠等が施され、善悪の判断思考を骨抜きにされ、命令のままに行動する特性をも備わったのであった。
 今我々の周囲に居る人達を観察すると、「自由・平等・平和・愛・優しさ・和合・協調・・・・・」等の言葉での大義名聞と言葉の意味(言霊)の美辞麗句に酔いしれて、それを「絶対視」した主義主張が実行力責任感の有無に拘わらず、他の意見等を抹殺し、善しとして罷り通る現況である。逆に、「束縛・差別・動乱・蔵悪・憤怒・対立・孤立・・・」等の言葉を訳も無く「敵害視・悪害視」する風潮は、恐怖の宗教的洗脳が功をそうし、キリストの言う「迷える子羊」、空海の言う「異生羝羊心」であり、明確な自意識判断力目的意識を全く持たず、時として、上の人々に諂い、人間として深く考える事無く、ムードと好悪の感情のみ先行し、これと言った選択肢等も無いままに、直ぐ集団化してしまう大衆峨出来上がり、鬼道師的指導者の実に棲み易き世の中となった。其処には共存社会はあるが、正しい共生、輪廻、循環・・・等の概念は希薄化し、子孫に優れた精神的な文化遺産を残こそうと言う気持ちは全く無く、遺産が有っても却って踏みつけられ、馬鹿されるのがオチであった。又、自分の主義主張を余りしない寡黙だが実行力責任感芽ある人であっても「味気のない人・面白くない人・時代遅れな人・・・」等と非難する可笑しな風潮が横行した。古くは、日本人は「寡黙を美徳とする風習と躾」等が社会規範社会教育として立派に通用していたのであった。
 ※とにかく、現代は美辞麗句による「言葉(言霊)封じ」の時代なのである。
 ところが、現代の文化人教養人達と称せられる人が近視眼的立場から、日本古来のモラルを時代遅れと罵倒する。そして云う、これ等の新しき現代の風潮は若者達の新しき哲学的思想とモラルへの創造への挑戦だと公言し憚らない輩であった。
 モラルは我々の生活慣習より良くする為の社会規範として時代に即応するものであり、哲学は普遍の真理の探求に於いて定理されるが、決して犯罪者や騒乱者達を養護するものではない筈である。 仮にこの風潮に同調するというのであるなら、それは社会に対する不平不満欲求不満等の鬱憤を解消せんと蠢くの現代人姿を映し出しているに過ぎない。悔悟反省、物事の正確判断選択等は前途を見据えた目的意識と自分の確固たる信念にてなすべき問題だからである。又それは、現代人の視覚が死角となり鬼道部分となり鬼道師達の存在を容認してしまったと云えるのである。
 日本か本当に将来に生き残る道を画策するのなら、上記のような鬼道に迷わされて居る時ではない。
 鬼道は鬼道であると認識し、宗教が悪鬼神達を「悪魔=煩悩は善なる神の教導にて、護法神や守護神等となり得る神仏」等と云うのであるなら、それは又「我々の心の現象が煩悩であり、真理の現象としての悪魔達が摂理そのもの」ではあるが、時として、それにての呪詛行為は「真理や摂理」等を度外視していると思われるからである。
  つまり、自己本意的横暴をなす部分の我々の行為を以って即鬼神たちの行為と看破して、そのまま「善的警告」として、人間の異常性を具性化して、そのエネルギーを幻影化した悪魔と言うのなら不可思議性がある。これは正に言霊封じであり、鬼道と正道の狭間に立ちどちらにも片寄らない「恐怖の第三帝国」を造り、言霊封じを武器に、善悪(善悪両神)そのものを批判しょうと重箱の隅を突きまわり、地位あるもの、名誉あるもの等の言葉尻に難癖つけ、壊滅せんと企図するものなのである。
 資源もなく、国土も狭く、島国である日本の「正しい生き残りの方法」は宗教が云う「悪魔=煩悩」即ち「悪魔の智恵」の正しい活用以外には無い。つまり、悪魔の智恵=技術はある一面では、短期間に於いて、我々の間違った道を軌道修正する掃除屋となりうるからである。悪魔が技術であり、人間の自戒心を高めてから、善神にて教導してから、悪魔の智恵=妖力の善用にて(元の自然に戻す方法他・物の不浄を喰う烏樞沙摩(ウスサマ)夜叉明王(便所の神様))にてしか、それにて頭脳立国になるより他に道が無いとの皮肉な結論となるのであった。それが、共生と輪廻のモラルの原理なのである。
 つまり、誤った「神仏論や鬼道論」等の思想を持つと、現代の日本人の多くに見られる性情の「個人主義・利己主義、現楽主義・現世利益主義・穏健主義・他力本願主義・無関心主義・悦楽享楽主義・・・」等が「鬼道思想の巣窟」となり、信念無き人間像を日本人の心と表され、感情的不快感を露呈した鼻持ちならぬ人間像を多く誕生させてしまうからでる。
 温帯モンスーン地帯の日本には此処だと云う時に不思議な事に「救い神(台風)等」が現れた。その為か「明日は明日の風が吹く」、「何れはなんとかなる、なるようになる」等とか、一寸も懲りない習性が出来上がったのかも知れない。
 お天気任せは日本民族だけではないが、広州記に「若し旱なれば、百姓牛を殺して雨(雨乞い)を祈る。石牛(牛の石像)の背に泥(塗る)して礼(拝)す。ついに、即ち、天雨降ること甚だし・・・」と。これから推す限りでは、現代は宇宙時代に突入したと言われるが、近代人の魂の成長は神話伝説からどれ位の距離の隔たりがあるかは疑問である。
 日本人の魂からは、物事の本質を見極める「情知」と、全てを愛し慈しむ心を育てて、人と人、人と物、周りとの繋がりの潤滑円滑化を促す「愛智」もう既に失われてしまったのであろうか。これが、我々の魂を苦悩=煩悩=執着=欲望=鬼道等から正しく脱却する方法なのである。
 諸宗教は「情知と愛智」を情と愛と見て、痴にて貪り、執着する心とし、四惑(情欲・色欲・貪欲・性欲)として禁じた。智は差別智であり差別智と云い破邪の剣として、無我の中に埋没させた。つまり、智は或時には降魔や破邪神として君臨し、又或時は悪魔や破壊神として登場させたのである。何故そうなるかの説明は無く、智と情は悪道=鬼道=悪魔達等なのであつた。
 後に、宗教もそれ等が人間の本質本能と人間そのものの否定であり人間本来の有り方迄をも壊滅するものであると考えたとき、本能そのものを人間の最高目的(自分も神仏になると云う大望・・・等)を持つ事にて小事を我慢し浄化し、大欲大望の中で善化出来精進出来る人間の特性を認めて、「煩悩即菩提・大欲清浄菩薩位」と転釈した。更に唯摩居士の言う「直心是菩薩の道場なり・・・」とするのであった。
 情とは愛と共に好き嫌いを直観にて、「人と人・物と物・人と物」等を結び付ける役割をする感情であり、愛とは執着心や好き嫌いの感情を惹起させる情愛でもあった。
 情知とは明らかに知る、本当にしる、情愛を以って知る・・・等を意味する。常識的に「知りたい、見たい、触れたい、固持したい、判別したい、批判したい・・・・」等云う極めて自然発生的な人間の能動的知的探究心を云うのである。
 対して、愛智とは好き嫌いの感情から派生し、在るものに「慈しむ、恵む、愛でる、育む、愛する、共感する、同調する、協和する、好かれたい・・・・・」等の感情であり、人間の育成や成長に対して「受動的本能的好悪の情心」に働くものである。
 愛智も情知も宗教の言うように邪悪なものであるなら、それが仮に「愛欲」等であると云うなら、この本能的感情の一である「愛縁」から出発して「恩愛」に転じて、人間としての「情緒心」を育て知る事が、人間味ある感情ある人間に育つと云う事が、社会的人間に育つという事が、不都合と言うこととなり、宗教は一体如何なる人間を育てたいと云うのであろうか。宗教の「煩悩即菩提・・・」等と言うことは具体的説明を避けているが、つまり「即と接(節)」等の理論にあると云うことであり、煩悩〜菩提への転移の「即の理論」を繋ぐものは愛智と情知の「節(接)の理論」にあると言えるのである。
 我々が即と節の理論を曲解し、鬼道の闇に身を投じ、救世主伝説等の如き戯言を信じたり、他力本願
の真意を曲解したりしてその幻影を夢想している間は「全てが宿業としての因縁の障りや祟りにある・・・・」等と云う鬼道師達の偽言に惑わされ、警告としての魑魅魍魎等の幻想を習癖として、有的な存在と認識する事となり、幻想が見えること等を、霊感があり霊能力超能力等があると錯覚するに至っては、それこそ「無間の闇=無間地獄」が出現しそれに囚われて、彼等は闇の中を嘆き悲しみながら彷徨する「化物=鬼神=邪神」等の心を持ち、心優しくも憂い悲しみの表情にて業惑縁起を品性とする幽霊的魅力がある人間像を醸しだし、異種独特のニヒルな人間に育つように教導してくれる事であろう。
 此処で本題の「鬼道と正道の狭間」を定義しておこう。
 鬼道と正道の狭間とは、正道の名を騙りその中に潜む鬼道部分(呪詛部分)と、善神の教化なき鬼神を祭祀し、善鬼神と偽り宣教し信奉するする輩達で、つまり、鬼神の有るべき本来の姿を熟知しないで、悪鬼神達と取引契約しないで、欲望の侭に行う邪道的呪詛を云うのである。
 大和魂を喪失した我々現代人が心に銘記しなくてはならないことは、宗教家でない唯摩居士が「直心是菩薩の道場である」との真意は、自分の心に正直に生きる事ではなく、人間として心に恥じない生き方でもないと銘記すべきである。その真意は「真剣に真摯に物事の理を見極め、自らの心の最奥から湧き上る人類に普遍のメッセージを汲み取り、博愛情愛を以って周りを見渡し、周囲の中の自分と自分の中の周囲を勘案し、ともに共和共生出来生き生かされる環境の創造を模索せよ・・・・。との真意を良く含味しながら、体感しながら、人間としての行為の一つ一つを慎重に選択しながら、日々の生活を平凡に徹して、精進努力して行きなさい・・・・」と。理解しなおす必要がある。又細く長く焦らずのんびりと人間らしく、法の環境下にて、是正しながら生きることを示唆するものとも解釈出来るのである。

(参考 武士道については、最後の侍と言われる新渡辺稲造の著の「武士道」(アマゾン書籍通販)があり、武士としての勇・仁・忠・誠のあり様を解説しており、多くの国々で訳されており、長くロングセラーとなっているので参照されたい。)