(二)宗教と鬼道
我々は、前章等の色々な考え方を通して[我々人間の精神や肉体、その機能を主宰する脳等が、何故この様に創られたのか、何故このようで無ければならないのか、]等々と、科学的分析や科学的思考をすればするほど、不可視な宇宙の根源的な意志が人間の愚かな知恵と行為を嘲笑うような、何者かは不明なれども、巨大で強圧、而も、人知を越えた[存在も無い、無でも無い]が、宇宙を主宰すると云える何者かが、存在を越えた声無き声にて、何か重大な事を我々にアピールしているように、私だけかも知れないが、そう思われてならない。又それは神仏としか表現できない神秘性と深厳があり、強大な威圧感圧迫感が我々のちっぽけな意志等無関係でそれを嘲笑うかのように、別の次元とも同次元も班別出来難く、我々の五官(感)を通うさずに直接深層意識に恒に働きかけていると思われた。その圧迫感と清涼感、神々しさと光々しさ、不合理とも合理とも何とも判じ難いものがヒシヒシと個人差はあれども各々独自で感じとることが出来るのであった。そしてそれは化科学的でなくても万物に共通なメッセージを声無き声にて常に語りかけている如く、又、全てにも個人個人にも差別無く平等に深層意識に語り掛けている如くにも思えるのものである。この人類に普遍のメッセージは宗教家の言う「世俗的な信仰心や道徳心」、我々の「俗信仰から派生した信仰形態と慣習」、更に、我々が希求する人間性、俗世間とは到底無関係と思われ事が多いが、何れも真理であり真実味があると思われた。只、一即他・多即一的で、同聴異聞など如何でも良く勝手に解釈しなさいと云うような曖昧性まで包含すると言う奇妙なメッセージと受け取れるものであった。
 又々、余談となるが、最近のある機関紙に掲載されていた談話があった。それによると、現代に生きるアメリカの循環器の研究者フリードマンとローゼンマンの両博士は、心臓病で亡くなる人は[攻撃的な性格の人がその他の性格の人に比較して圧倒的に多い]との統計を発表していた。又、東北大学の細川徹助教授は癌になり易い人のタイプと性格を[合理的に物事を考え、忍耐強く、自己主張は控えめで、争いを避け、社会的に協調性に富む人]が多いと発表していた。
 前者を西欧系の人に多いタイプと言えるなら、後者は日本人特有のイエスマンタイプの極普通の中間管理職層にゴロゴロいるような人々の事のようである。これ等の統計は宗教と全く無関係ではあるが、それ等が人間のストレス解消の仕方に問題があるとするなら、キリスト教は世の中が合理で、神の世界は不合理でも不都合でないとする考えにも一理がある事にもなる。東洋や日本の宗教では不合理が世の常で神や仏の世界は合理な世界だと説明する。それを文化や思想、地理や気候等の違いと云ってしまえばそれまでだが、この世で現実として、ストレスを解消することが下手であり、而も、今も昔もそれを美徳としている社会はどうもわが国日本であるようだ。又、このデータが物語るものは、遺伝学の云う病気への免疫度よりも「人間の性格により」癌の罹病数値は高いという事だろう。
 だとすると、病気は宗教の云う因縁とはある面で無関係となる。日本のイエスマは極めて普通で当たり前の善良な市民であり、少々我田引水だが「道徳的人間」等だと云えるだろう。更にそれは、普通の人間より比較的に信仰信の厚い「宗教的倫理感の有る者達」等となる。宗教に於いては「善人おや救われる、況して悪人おや」と言うからである。しかし、現実こうでないことをこのデータが物語るように、我々も又、常に実感している事なのである。つまり宗教の云う善人と我々が考える善人との間に微妙に違う何かが有ると云う事なのである。
 さて、宗教とは何度も述べたように元々、自然発生的な俗信仰から発生し、呪術魔術的となり、次第に科学的、哲学的な裏付けしながら発展して来たものである。それは狩猟民族から農耕の定着民族へ、そして商工業社会へと推移する中で、心の安寧、五穀豊饒、息災延命、子孫繁栄等の願いを、自然との共存と従属と支配、個人と家族、民族と民族等の相互関係を通じて、自己の無力さと、これ等を支配する強大な力を畏怖し、そこに不可知不可視ではるが、巨大な神秘なパワーを持つ不可思議性な存在を感じて、神として崇め高めて、その時代時代に即応する信仰形態を以って神々の加被と加護を願うことから始まり引き継がれてきたものである。それ等の発展過程では神々の子孫と名乗る者が登場したり、神々の神託をする神官や巫女、啓示等を行う霊媒師礼監視や占い師等が登場したりして、人々に伝えることが出来る専門家の巫女や神官、霊媒や占術師等が権力を持つようになっていった。
 時代の流れは、多神教から一神教へと漸次移行しながら、特殊な能力を覚醒したと言う者が、開祖や教祖となり[自らの教えを最高善としそれを教示する道]を説いて行った。
 嘗ては、神官や僧達は人格的にも学問的にも当時では最高の文化人であり、偉い人で有ったので、大衆からも尊敬されており、時の政府からも禄や扶持米与えられた特権階級として明治時代まで優遇されていた。今も扶持米や禄がないだけであり,宗教法人として特別待遇されている。
 宗教も宗教家も歴史と言う取捨選択と言う淘汰の浪をうけながら、敬信する神仏を賛嘆した[経典]、他宗教を批評した[判教(論)]、教団の戒律を定めた[律経]等を編纂して教義教理が組織化されて成立したのが宗教教団(仏教教団・神道信徒団・・等)であるが、組織的では無いが、民族信仰、土着信仰として継承された殆ど旧来のままの信仰形態を残しているものも又宗教なのである。
 宗教家達の目指す終極目標は、庶民と違って、敬信する神仏との同化、感応、加被、加護、加持力(神通力)等を獲得せんとする事である。だが敬信する神仏の何足るかも問題であり、その思想や方法論にも問題があり、又、次ぎの様な疑問も起るのである。
 つまり、我々庶民の大半の本能的願望とは「息災延命・富貴円満・和合敬愛・家内安全・子孫繁栄」等を至心に神仏に願うたに過ぎなかった。対して、宗教家が目指す終局目標は庶民と違い、敬信する神仏との「同化・感応・加被・加護・加持力」等を得る事であった。敬信する本尊にも問題があり、その方法論にも問題があるが、その点について彼等庶民は案外無頓着のようであった。
 ある宗教家が神仏を信じて修養するなら、その神仏の感化を受け、神仏の御心を迄も受け継ぎ、その行為や動作が品位や品格となって、宗教家の内面から雰囲気として醸し出すのが当然だろう。何故なら、親に似ぬ子は[鬼子]だからである。一般人でも、ある種の職業を長く続けて、専門家と呼ばれる頃にはその職種の持つ「独特の雰囲気」を持つ様になるのである。まして、精神的修養を主とする宗教家は有的虚像に執われる事無く、神仏の御心(三昧耶(samaya神仏の御誓願)=漠然とした時(無我の境地)=平等 誓願 驚覚 除垢障の意)等を当然受け継がねばならないからである。又、その副産物としての神通力も得られるだろう。たが、その神通力も五神通、五神変(天眼通 天耳通 他心通 如意通 (神足通、神境通))等の何れかで、余程の修業しないと授かる事もなく、何れの神通力であっても完璧に完成されたものでなく永続性が無いと言うのも事実なのである。つまり、その神通力は何れも信義を通して神仏の加被と加護により生じて得たものであり、宗教家の身の安全を護る為のもの、精神の惑乱を鎮める為のもので、呪術、魔術的なものではない。だがら、若し誤用すればその時から、神通力は消えて無くなり只のマジナイとなるからである。故に、彼等の敬信する神仏が善神でも悪神の何れ有っても、信ずる神仏と似ても似つかぬ心と言動と雰囲気等があるなら、それは鬼子であり、偽善者であり詐欺師であり、宗教家でも救道者でもないと判断出来る。女面女菩薩内面夜叉であろうと、それはそれなりに筋が一本通っていれば良いのが宗教家とも云えるのが結論と云えそうであるから脅威である。
 だが、宗教家の中で次ぎの様に弁解する者もある。仏や神の名を冠する以上は、どんな神仏であろうとも一応は完全智と完全慈とを円満に具備している。これを仮に密教美術的表現をとると、神仏の知恵は我々の邪見や妄執を破壊する剣や武器に例えられ、更に、煩悩や悪魔に対する正義の怒りとしての忿怒形等に表現する。又、神仏の慈悲は優しさの極致として共華(香や華)に例えられ、更に、慈愛に満ちた慈顔(観音様やお地蔵様の様なお顔と容姿)等にて表現する。憤怒(仏智)と慈悲(仏慈)とは同時に表現することは不可能な為に、智慈の表裏を仮の姿として何れかを表として図像化してものであると。つまり、偶像の中に眞の姿を見る事は出来ないので、お前の云う事は根拠が無いと言う事なのだろう。
 確かに、一理は無い事も無いが、それは人間が勝手に神仏御心を懐間見たに過ぎず、神仏の御心が人間のように何れかに(智と慈の)片寄るか否かは疑わしい。これでは宗教家が如何なる心衣を着るかも疑問だし、我々に円満な心を持てと指導するのも疑わしい。それなら、仏師が水行したり、苦行して観想したり、儀軌を見たりして、それに忠実に敬虔に創造するのは何故だろう。それにはそれなりの理由があるものであり、仏師達をもそのように指導したのも又宗教家なのであった。芸の達人・芸術等の作家の優れ者・その他の名人達人達等は作者や物語、儀軌等からその主人公の心魂を知り、その主人公に成り代わり演技しているのであり、主人公に一歩でも近付く為に努力しているの者達と仏師も同じだからである。
 だから百歩譲ったとしても、宗祖、開祖、師匠等と似ても似つかぬ雰囲気なら、それは偽善者と云えるのである。何故霊感師や霊能者達が霊的な雰囲気なるのか、答えは、習癖にて記憶された霊等の容姿にて霊の存在を認めた為に、それ等の霊に似通った雰囲気になるのは自明の理なのである。
 こうして、宗教はある人が言うように「神仏の世界に於いては如何に円満で合理であると主張」しても、現実の世界では宗教が、精霊信仰の時代、シャーマイズムの時代、神官や巫女や呪術師等の支配の時代、貴族社会と政教一致の時代、武士社会に於いての貴族の宗教と庶民の宗教との宗教の二分化時代、明治以降の政教分離の時代等を経て、発展して来た過程があり、その過程に於いて意図的とは云わないが、既に鬼道が、正道(聖道=正しい教え)と表裏一体化した「その狭間」に存在して来た事を我々は知り得るのであった。又それは、神仏の御心を体とした正道なる宗教家の支えで存在出来た事も事実であった。
 さて、前章の鬼道法でも度々この事は検証してきたが、再度、道教儒教仏教神道等をその都度触れるので先ずは教科書程度に略述しながら、宗教側が云う鬼道とは何かを大きく把握する事としたい。
 道教の終極の目的とするのは、既知の通り、最高の仙人[神仙]になることであり、それは又「不老長寿を獲得」する事でもあった。道教には大きく分けると二の道教がある。(一)は自然発生的な俗間の信仰形態と仙人伝説等を殆ど旧来のまま民衆に伝承された教理体系持たない[民間(衆)道教]ものと(二)は上記の俗間信仰等を後漢の末頃から教理体系を整え成立した[成立道教]とがある。
 仙人とは中国道教の専売特許ではなく、俗にインドの仙人を文化的仙人と呼べるなら、日本の仙人は慈善事業を人々の為に行う救済的仙人と呼べる・・・等々の仙人達も結構多く居ったのである。対して中国の仙人像は自然と孤独を愛し不老不死を願う少々独善的仙人達と云えそうである。
 さて、(二)の成立道教とは、中国古来の神仙説や呪術信仰、易や占い等を母体とし、中国古代の伝説上の皇帝である[黄帝や老子]等を始祖と仰ぎ、無為自然を宗とする老子や荘子の哲理にて裏付けをし、生身のままで不老長生を目的とし、仙界「桃源郷」に行く事を理想とする仙人道である。仙人とは眞神への[道=自然との合一]即応を説き、祈祷やマジナイ、修行方法、薬餌法、煉丹法、煉金術、養生法・・等を行う教義体系を後に仏教(密教)等の思想を混じながら、戦国時代(中国の春秋時代)からあった神仙説を主体として、道家(道士)等の思想を取り入れ後漢の末期に成立したのが成立道教であるが、その最初は張道陵の天師道である。後に仏教の影響もあり、主として民間に強い支配力を及ぼした宗教家であった。つまり、道教とは[人為的文化生活を否定し、仙人(神仙)なる為の宗教]と云えるものであった。
 (一)の民間道教は旧来の呪術信仰を主として、森羅万象の全てに[霊魂=鬼=気]が存在すると云う考えを認知し、陰陽説の[陰と陽]を、天地間の万物を創造する二の気(陰と陽)を、[正気と邪気]・「正霊と邪霊」等と気侭に解釈して、正気(正霊)を吸い邪気(邪霊)を吐き出す(祓う)事に依って、良き生命エネルギーが体内蓄えられて、現在の幸福や不老長生、現世利益も欲いままであると云う断片的概念を飛躍的に説く宗教である。この点では先の成立道教と類似しているようだが、民間道教ではこれが霊魂、気、鬼、悪鬼等を同一視したり、それが障気・瘴気・狂気等が邪鬼・邪霊・化生・湿生・妖怪・正霊・・・等であったり、何でもかんでも「気=鬼」等としており、未だに断片的で雑多な思想が混在しており、一貫性なく混沌としており教理が体系化していないのが特徴である。
 民間道教の主な儀礼を例に簡略説明をすると
 巫祝 「フシュク=神に使える巫女のことで、日本の巫女、密教の依坐(ヨリマシ)、イタコ(霊媒)等の原型と見なされるもので、神魂やその他の霊魂等が、霊媒者に乗り憑き(憑依)霊の言葉伝え、障りの原因を突き止めて、祈祷やマジナイ等を行う事を云う。」
 陰陽 「亀甲等の占いから派生し、天災、暦事、選吉、禍福、方位の吉凶等を易盤にて占う事を主とする。日本にては儒教が加味され陰陽道として独立宗派となる。陰陽とは天地万物を創造する相反性の二気のことであるが、此処ではこの二気を概ね正邪の二気として判断されている。五行論と陰陽論とは共に宇宙の原理や天文学を説明する中国の二大学説(哲学)であったが、次第に予知法から占術、呪詛法へと発展してゆき、遁甲占術・・・等を生み出し、兵法的色彩や幻術的妖術的要素を帯び、式神(使い魔)等を操る様になって行った。」
 易 「宇宙の構成要素は何にかと云う元素説から派生し、主に五行易(周易)を指すようになった。万物の変易(易経)を原理とし、万物の構成要素を木火土金水の五行とする。始めは先の陰陽説とは別の発展経路を辿ったが、後に陰陽五行説となり天文学の基礎なったものだが、陰陽説と合体し筮竹等にて人々の運命や吉凶禍福を占う占術「周易」としても発展した。日本では高嶋易断の断易は有名である。又、暦では陰暦と太陽暦の対照の日本で作られた[保元暦]はこれ等を基礎として作られているが、今の大安や友引、仏滅・・等順番に記す暦(お化け暦)とは全く異質なもので、これは気学奇門遁甲の創案者中国春秋時代の軍略家「諸葛孔明」が名付けた六曜を参考とし後の気学派が改名したもの。」・・・等がある。
 神仙道 「神仙とは神の様な人の意にて不老不死にて、先述の[六神通]を会得した人を云う。古代の中国の民間に根付いた仙人伝説が母体となり発展したもので、仙人になる為に質素倹約を旨とし、山岳に分け入り過酷な修行を行うのが常であるが、仙人の最終目標は不老長寿であり、その最高位が神仙である。仙人にも種々に区分(楞伽経等に10種程の仙人名が記載されている)されており、神通力の一つを得た者仮に空を飛べるなら飛行仙、セックス好きな房中仙、天眼通なら天眼仙・・・・等と呼ばれたり、その特性にて色々呼ばれていたりしたらしい。又、彼等は魔性のもの「古木等の精霊・魑魅魍魎・妖怪・化生・・・」等やその他の不老長寿を得たもの等にも妖力神通力ありと認め羨望したともいわれている。
 成立道教によれば「神仙=真神=真人」とは仙人の最高位にして、自然と一体化[時の流れとの同化]をした仙人を言うとある。つまり、空間を切断して出来る静止的時間ではなく、[流動的時間]=[自然の変移]の隙間、刹那刹那の間隙(タイムトンネルの様な考え)の中に神仙の[悟道]=タウ(道)があるとするのがこの成立道教の神仙道なのである。
 民間道教には成立道教のような理論は無い為に、後に俗間の呪術信仰と結び付き、多くの呪術、幻術、呪文、霊符、呪符等を乱発して行った。つまり、呪符や霊符(マジナイの札)等を盛んに発行して行き庶民に親しまれ受容られた宗教なのであった。今に残る日本の正月の縁起札やシメ飾り等の多くはこの神仙道術=民間道教の儀礼の継承である。」
 ところでこのような儀礼を持ち教理そのものが組織化していない民間道教を、成立道教側は彼等を蔑み[邪道、外道、鬼道、魔道、妖誑道・・・]等と誹謗し批判したのであった。だが、成立道教も且ってはこの民間道教や土着の民族信仰等を老荘の思想にて教理を整えて、仏教思想をも混在しながら成立したものである為、民間道教と同様に成立道教の中にも多く「鬼道や邪道部分」を多く含んでいるのは当然なのである。日本に百鬼夜行や妖怪を次ぎから次ぎへと出現さしたのもこの両道教なのであった。
 とにかく、この二の道教は日本の神道、陰陽道、仏教は勿論、医学、天文学、科学、哲学、倫理学等に、更には我々の生活文明にも多大の影響を及ぼしたのであった。
 (参考、「道」とは宇宙の根本原理の意味があり、儒、仏、道の何れついても云われる言葉だが、道教の云う[道(タウ)]とは「道」即ち「自然を尊ぶ」ことで「人為的文化生活を否定」することであった(老子、荘子等の思想)。つまり、宇宙体と一体となることであり、その方法が神仙道であった。この学説を奉じる学派が道家なのである。この道教を信じて過酷な修行をし、占い、マジナイや医術に秀でた道教の僧が[方士や道士や仙人]等と呼ばれた。又、方士や仙人行う方術、仙術、妖術・・・・等のことを含めて「道術」とも呼ばれたのである。とにかく今も人々に高い支持を受けている中国の宗教で、煉丹術・錬金術等を含めて我国に与えた影響も大なのである。両道教の仙人達は仏教の小乗時代の羅漢達等とも類似したおり、過酷な修行に耐えるが少々独善的傾向がある仙人達であり仙人道であった。為に鬼道部分を多く存在さしてしまったのであり、この二の道教には科学者の云う迷信的習俗が多いのが特徴である。)
 次に仏教について紹介しょう。
 仏教は今から凡そ三千年程前のインドの釈迦(ゴータマ、シッダルタ(紀元前565〜480年頃)に生存?)が教祖であり開祖であるが、バラモン教のカスト制度(階級制度)の差別に対し、平等を説き、時空を超越した宇宙の根源的な原理を悟った人との意味から[仏陀]と尊称された人である。人間の定命的苦悩である「生と死からの離脱、」超越する方法、その執着(定命的苦悩)=煩悩から開放される道「悟りへの道=真の解脱道=涅槃道=覚者道」等を説くのが仏教であり、釈迦の教え云えるのである。解脱道とは終局の人格完成の道であるとし、人間性をも追及する倫理的宗教でもあった。釈迦の生存中やその滅後に釈迦が覚者「悟れる者」となる前に行ったバラモン教らの仙術修業部分を継承して山に入り、「声門や縁覚」を契機として、独覚を目指し過酷な修業に耐える釈迦の弟子達(羅漢様達)を「小乗教」(小さい乗物)と批判したのが、後の「大乗教」であるが、彼等は羅漢様達のような過酷な修行を捨てて、凡夫(迷えるもの)と共に悟らんとするのが大乗教だと主張し小乗教と袂を分った。
 大乗教は二〜三世紀頃、南インドにて中論や大智度論等を著して、八宗の祖師と云われる龍樹(ナーガルジュナー三論宗の祖、空理論(仏智=縁起法)を説く)と、四世紀頃唯識二十論や摂大乗論等を著した北インドの世親(ブァスバンドウ)と無着(アサンガ)の兄弟(法相宗の祖、全て心の所成とする唯識論=仏慈=三昧)等によって事実上哲学体系が完成したのであった。彼等が仏教の中興の祖なのである。
 ところで、インドの釈迦は勿論仏教の教祖であるが、説かれたと云う種々なる経典の中味にて教祖を区分すると、日本では大きくは「四如来の教祖」に分類できそうである。
 [一]釈迦教(日本では禅宗系が釈迦如来を本尊とし、座禅と以心伝心を宗旨とする。)
 [二]阿弥陀教(日本の浄土宗、真宗系が阿弥陀如来を本尊とし、極楽往生を願う)
 [三]薬師教(日本の法相宗や密教の一部が本尊とし、息災健康を願う)
 [四]大日教(日本の台密、東密系の立て前上の滞日如来を本尊とし、現世利益や即身成佛を願う)
  ・・・・・・等の四教祖になる。
 さて、釈迦教とはこの世に生を受けた釈迦如来一代の教えを云うのであるが、釈迦の弟子達が行った独覚を目指す羅漢行(釈迦の悟りは釈迦の仙術的修行部分を前提としてあると云う事)を善とし、小乗教を釈迦本来の仏教の姿であると主張してそれを継承する宗派の事である。釈迦一代に説かれた経典や論経とは阿含経、方等経、般若経、倶舎論、成実論、華厳経、法華経、律経、涅槃経・・・等と云われている。これ等の経論は釈迦の時代には未だ文字が発達していなかったので、殆ど釈迦滅後に釈迦弟子達が釈迦の説法を集大成したもので、全て[是の如く我れ聞けり]から始まる説話形式にて語られており、大抵は文殊菩薩が問い掛けて(釈迦=仏陀の知恵の代役として)、釈迦が答え、普賢菩薩がその釈迦の自内証を顕現する(仏陀の慈悲の代役として三昧に入り、釈迦の答えの真実を大衆に具現化する)云うパターンにての教導形式問答形式であった。
 仏教語の以心伝心とは「同聴異聞」なる弊害を避け、釈迦の真意を理解するのに「言葉は無用」だと言う事である。八年間も座禅して足が萎えたと云われる通称「[達磨大師=ダルマ]は禅宗の祖であり、日本の七転び八起きの開運守り「ダルマさん」はこの人の偉業を讃嘆するものなのである。
 釈迦が「人間が死んでから、次の生を受けて生まれ変わる迄の中間的魂の存在(中有(アンタラーバブァ)=中陰=輪廻転生に至る迄の期間=喪中、満中陰の49日間)」等の有無を如何に考えていたかは不明であるが、倶舎論の第十世間品に中有の存在と愛欲や煩悩に依る「人胎再生説」等をも想像出来そうな記述等が見られ、又成実論の第九品等にもその存否について論争している。その後中有や再生の存在を有的に説く代表的部派は「説一切有部」派等があり、存在否定論者は「大衆部、説出世部、鶏胤部、化地部」等の部派があった。
 大乗仏教はこの点が曖昧で、大乗経典の内の大般涅槃経第十八に釈迦滅後、弟子達の間で論争になるとの釈迦の予言の中に[中有の存在]があるのを受けて「灌頂経、中陰経、梵網経等や偽経である地蔵十王経」等にても存在を一応肯定してはいるが、経典数は極一部であった。こうしてこの論争は現在に至っても引続いている。
 さて、座禅を行とし、以心伝心をその奥義とする禅宗は釈迦及び彼の弟子達の羅漢行を受け継ぐものであるが、現在の新興宗教の中で釈迦の眞伝と称して阿含宗、涅槃宗、或いは法華経等、本尊として普賢菩薩等を信じている宗教等と喧伝はするが、それ等の宗教の一部は排他的で他宗を見下し、而も、月蔵経や法滅尽経、涅槃経の観弥勒下生品等の中に記述する釈迦の予言の末法思想を誇大宣伝し、日蓮(日蓮宗の開祖)の元寇の預言等を捩りて、継ぎ接ぎだらけの教理を打ち立てて、何の一貫性も理論的根拠も無く、果てはヨハネの創世記を持ち出し誇大宣伝し[この世紀末にはこの世は破滅する、近々人類は滅亡する]とか云って、その悲惨さを煽り立て、自らは救世主面をして、そのカリスマ性を持って正当化する始末。又、その布教活動たるや現世利益を主とする金儲け主義の商法であり、有りもしない付加価値を憑けて品物等を法外な値段で人に売り付ける布教行為は正に霊感商法と云われるものである。それ等の詐欺的行為を堂々としているのは誰が考えても、釈迦を開祖と仰ぐ事すら恥しくないのかと思うぐらいの詐欺師なのである。ここにも現在の謎(魂の安息)に潜む鬼道があるようだ。
 阿弥陀教とは訳して「無量寿如来、甘露王如来」となり、梵語の音通り読みでは阿弥陀如来(a+mrita?amrita)とも云われ、通称は阿弥陀様が教主となる教えである。説くところの経典には「無量寿経、観無量寿経、大阿弥陀経、仏説阿弥陀経」等があるが、一部は中国で作られた偽経臭い物が混じっている。 日本での阿弥陀教系流としては、浄土宗の開祖法然(1133年〜1213年)の選択本願念仏集。浄土真宗、真宗等の開祖、親鸞(1173年〜1262年)や蓮如(1411年〜1496年)の教行信証文類、正信掲大意領掲等があり、又、念仏宗、一行宗等の系流もあり、何れも弥陀如来を本尊としてその賛徳をしている正道と思われる宗教等である。特に親鸞は僧の妻帯を善と認めそれを実行した人である。浄土系流の阿弥陀の世界(浄土)は西方の十万億土の極楽世界に住され、阿弥陀如来の本願力にて、通称他力本願にて、庶民は唯一[南無阿弥陀仏]と専心に唱えれば極楽往生出来ると説くのであった。この形態は唯[南妙法蓮華経]唱えれば良いとする日連宗とも類似しており西欧のキリスト教にも頗る似ている。だが日連系流の様に折伏主義(排他的)ではなく、弥陀如来がイエス・キリストの様なメシアでも無く絶対神、創造主等ではないのが異点だろう。
 さて、浄土系流の僧達が開祖(宗祖)の考えを継承して、死後は極悪人は刹那に地獄行となり、最善人は刹那に「極楽の蓮の台」上に生ると云うが、極普通の人々はどうなるかは[釈浄土群偽論]にて議論され決着はついていないが、死後七日・七日(21日間)に供養し最長四十九日にて、次の生縁(甦生する処・生誕する処)が決まるとの考え方等は密教の[中有=中陰]等の思想の借用なのかも知れない。親鸞は「善人おや救われる、況して悪人おや」というが、浄土系流の僧達は一般人や極悪人は勿論最善人にも輪廻転生を認めるのであった。
 ところで、ナーガルジュナー(龍樹)は[中論]に於いて、[一切の本質は空である]としており、ブァスバンドウ(世親)は唯識二十論に於いて、地獄界や地獄の番人鬼等は心(魂=脳)の残存思念=習癖=主観的映像であると説き、次の様に説明する。
 [カルマ(業)の習癖を創る力(ブァーサナー=意識の流れ)は、その行為者の心(精神=潜在意識=魂の奥底)の流れに浸透しているので、それ以外の場所に存在するのではない。そこで、その習癖を創る力が心以外の物質的な要素を生み出すと思うよりも、潜在していた(先に潜在意識に浸透しており習癖なりつつあるもの・或いは既に習癖なっているもの)その習癖を創る力が顕現化せんとすれば、心の流れに特殊な変革が起きて、地獄の番人(獄卒=鬼等)等の姿容(幻想)が顕現するとの考え方が妥当である。・・・]と説明している。
 だとすると、人間の魂(霊魂=脳)の潜在意識の奥底にある「幻想の世界、魑魅魍魎の棲む世界」を業が=煩悩が[カルマの習癖を創る力が作用して]それを偶然にも刺激した事が、次第に熟達して行き、心が現実の如くの幻影=を創り出す事を覚えて習癖(癖)となる。更に又、それを常に修練し再現できる特殊能力となり「自己催眠に、自己陶酔」等に簡単に入れる特殊な人間が「霊感者・霊能者」達と言えるのであろう。唯識派が云うようにそこは潜在意識の奥底は「鬼等の棲家」であり、悪魔達の実に棲み安き幻想の世界なのかも知れない。だがしかし、彼等の行為と存在を「警告」だと考えるなら、逆に「我々の魂の分裂を警告」する「法の番人・法の守護神」等なるのであろう。だが、其処にも、彼等霊能者達等の「能力と人間性とその秘められた回答の開示」が問題であり、又「鬼道の闇」が存在するのであった。
 薬師教とは 医王仏、薬師瑠璃光如来、医王善逝とも云われ、東方の瑠璃世界の教主で、十二の大願を発し[衆生の病源を救い、無明の痼疾を治す]と云われる尊である。経典には薬師瑠璃光経、薬師如来本願経、本願功徳経・・・等がある。日本では男神像だがインドでは薬壷に寄り掛る女神像となる。何れも医者の神様であり、日本では奈良朝の天皇の病気祈願に始まり、各地に薬師寺等多く祭祀せられている。独立宗派は無く法相宗に所属して祭祀されている場合が多い。たが、インドの大学にしばしばこの女神像を祭られておりアュルヴェダー等を研究する研究所もかなり多い。この尊は仏教や密教やその他に於いても、息災法以外の呪詛法に応用されることはなく、又別格の尊として敬われて、密教にてもこの尊を大日如来の別名との解釈をして苦しい言い訳する程である。我々の直接の悩みである「病気」を通じて、本能的生命の持つ「生と死」を息災の中で全うすることを約束し、医王としての解決策を示唆しながら我々を仏道へと引率してくれる宗教色の余り無い医者の神様、医王様である。この神様は又、現代医学の医術と仁術、神仏の完全性と人間の病、人間治癒力、免疫と薬漬け、健康体と精神の健康・・・等に重大な問題と疑問を投げかけていると云われているのも何かしら現実味を帯びている。
 大日教とは梵名マハバィローチャナにて、音読みにて摩訶毘盧遮那如来に当てられる。意訳にて光明遍照、太陽光の様な明光の意より[大日]と訳されている通称大日如来を教祖(教王)とする教えである。説く所の経典は一般にインドのナーガルジュナー(龍樹=龍猛(密教系の呼び名))が、南天の鉄搭にて感得し相承したと云われる「大日経・金剛頂経」等が所依の経と云われる。華厳経に説く奈良の大仏様も大日如来なのである。又大日如来は五智所成と云われ、五智とは大乗仏教の唯識(法相)が説く転識特智の四智、即ち、煩悩の為に悟る事が出来ない凡人の意識を転じて、迷いの心を離れ仏果を得るに至る四種の知恵の事で、十識(二十識にも分類される)の内で第八阿頼耶識を転じて得られるのが「大円鏡智」、第七末那識を転じて得られるのが「平等性智」、第六識を転じて得られるのが「妙観察智」、前の全五識を転じて得られるのが「成所作智」である。これに「法界体性智」を加えたものが「五智所成」で「五智を円満具足する大日如来」というのが唯識からの一応の見解である。
 金剛界・胎蔵界の曼陀羅の「四方+中央」の五仏「東 阿閼如来・法撞如来=大円鏡智」 「南 宝生如来・開敷華如来=平等性智」 「西 阿弥陀如来・無量寿如来=妙観察智」 「北 釈迦如来・天?雷音如来=成所作智」 「中央 金胎大日如来=法界体性智」等の五佛五智に配当され、一応唯識の転識得智に類似している。更には曼荼羅に、又、修法壇護摩壇等の東南西北中央等の五方位に配置した「五佛・五大明王、五天・五煩悩・五蘊・五鬼・五色・五大・・・等の配置があり、その他八方位・九方位・十二方位等にも神仏等を配当し対応がなされたりしているのも特色の一である。
 何度も述べるが、大日経に説く大日如来は理法身、金剛頂経に説く大日如来は智法身として一応区別されるが、総じては特別仕立ての「理智不二法身=報身?」と云われている。金胎両部の大日如来は「自受法楽の為に、退屈しのぎの為に、自内証の世界に於いて、万物を創造したり、常恒に法身説法したりしている」と云う如来である。その浄土は色欲界の最上界他化自在天の金剛法界宮であり、自性身(理法身)としてのこだわりを持ち「時空を超越した宇宙の活力としての智法身」と「宇宙の根源そのものとしての理法身」との両徳を兼備する如来であった。即身成佛、加持祈祷、現世利益を宗とする密教はこの如来が表向きの本尊なのである。この密教と道教系の陰陽道等が[呪い、呪われる関係]に一応の解決策を与えたことは周知の通りである。つまり、或る意味では人間社会における「人間社会の潤滑油的役割、やり場の無い庶民の怒り鬱憤ストレス等を解消する解決策」を示唆しとも云えるかもしれない。
 密教とはインドの小乗仏教の声聞や縁覚の羅漢行における過酷な修業に含まれるインドの仙術修行とバラモン教やヒンズー教、インドのベェダー等を始め各地の伝統的な呪術や祈祷法等の儀式等を整理体系化して西暦七世紀頃に完成したのが密教であり分派も多い。今では主にチベットのダライラマ(ヨーガ)等が継承する密教と日本の密教等がその代表である。日本では前述の通り、八世紀末に唐に渡り恵果和尚より密教を伝授された金剛頂経系流の修法や儀軌を中心として、日本独自の密教を完成させたのが空海の眞言密教(東密)であった。同時期に入唐し天台山に学び天台宗の開祖となった最澄も大日経系流を持ち帰ったが、彼の弟子円仁と円珍の入唐を待って完成されたのが天台密教(台密)であった。
 さて、何時の時代でも同じだが、[憎み憎まれる関係や呪い呪われる等の関係は]頻繁に起きており、その解決策を人知れず模索する呪詛法に類似した[呪いの法や恨みを晴らす法]等が断片的だが秘法秘呪秘儀として存在していた。これ等を霊障(精神=魂=念力)等として意義付け正当化し「お祓い、お加持、神降ろし、霊降ろし、呪詛返し、祈念、供養、祭祀、成佛、降伏、調伏、退散、転移、方除、災難除、息災、敬愛、増益、開運・・・」等々に儀法化して、我々全ての苦悩等の原因意識を転換させて、我々の納得を優先させて、安心させて親近して、方便を体として、序々に仏道への信仰へと誘うとの魂胆にて、現世利益を宗旨とする建前にて、色々な問題(悩み)に対応出来る様に考案していったのが、この「密教と神道、道教系神道の陰陽道、修験道達、拝み屋さん」であった。人間の活力を高める意味ではこれ等の宗教の貢献度は大だった言うべきだろう。
 インドのベェダー聖典には、閻魔(ヤマ)大王が、妹のヤミーとともに、人間として始めて死を経験し、冥界に入り、人類の父祖となったと記されている。閻魔王の居所を地獄(ナラカ=奈落)とするかについては後の仏典にも異論が多い。日本の民間信仰の[彼岸に地獄の釜の蓋も開く]等に見られる閻魔大王・五官王・八王・十王・午頭馬頭等の地獄の牢番、地蔵菩薩等が亡者を救済する為に登場する話し等は道教の俗信仰やインド説話等との混合から誕生した仏教説話や信仰等とも云えそうである。
 又インド説話の屍鬼二十五話や仏教説話等には色々な鬼神が登場するが、福の神で親しまれている大黒天(マハーカーラ)もシヴァ神の変化身であり、深夜に屍林を廃廻し、死人の血肉を喰う身体黒色の忿怒相の鬼神であり、カーラ(時間)を喰うとも云われることから「死神」の別名とも云われる「暴悪無人なる超大物なる悪鬼神」として語られているのであった。
 さて、呪詛法とは[呪いの法、恨みを晴らす法]であるが、邪悪な者・鬼神達の持つ妖力でもあった。インドの説話を密教流に云うと、それは[夜叉・羅刹の妖力]等で有ると言える。夜叉とは[暴悪]と意訳される鬼神達の親分格のことで[悪疾鬼]と意訳される羅刹を子分格として、共に[人の血肉を喰い人の精気を吸い取り、人に憑依し、弄び、暴悪な心を好む]残忍非道な悪魔達の事であった。この様な悪魔達の各々の特性と妖力を巧みに応用して彼等を支配し使役して、人を呪詛し、怨敵や外敵として害をなす者達を滅す法が密教では「降伏調伏法」であり、神道では「厭魅蠱毒法」であり、陰陽道では「識(式)神法」であり、それは又、夜叉や羅刹の法であると云えるものであった。
 要するに、これ等の行為は自然流だが、自然の法則及び自然の摂理との共生に似せてはいるが、人間の自然への挑戦であり、支配への意欲を煽り立てて、宗教の本来の目的から何時でも逸脱できる準備を着々と進めていたと言うべきものであった。日本は三国伝来の鬼神や夜叉、羅刹・・・・等の多くを祭祀したが、その多くは他宗の主要神や俗信信仰の神々達でもあったのである。
 たが、日本の密教や仏教・陰陽道等が三国伝来に亘る夜叉や羅刹等の鬼神達を多く祭祀したが、彼等が鬼神とした者の多くは他宗の主要神や俗信仰の対称だった神々である。この事は鬼神が即邪神であり、邪法駆使する悪魔や悪霊等と判断するのは早計である。何故なら、彼等(仏教や密教)は鬼神達を[仏法を護る護法神]や[智福神]として祭祀する一方、我々の心の中に棲む[煩悩と鬼神]等を同一視して云う[我々の最終目標は神仏(宇宙の根源)との感応や一体化にある。それは、我々の心を惑乱する煩悩=悪鬼神を排除した空なる境地(無我の境地=頭がカラッポの状態)にて始めて可能である]・・・と。意味不明瞭だが、この言葉をそのまま信じると、我々凡夫が考える呪詛法と密教や陰陽道等の専門家が云う呪詛法とに大きな隔たりがあり、何か我々に重大な事を隠していると言う事にもなるのである。 
 つまり大日如来の化身であり、仏法を護る護法神・守護神でもある悪鬼神が、或いはその他の鬼神が[賊心(悪心)であり煩悩であり、それが降伏(調伏)の対称となる鬼神達]となるのであるなら、裏を返すと「業(行為=執着=破壊神=鬼神)」が「我々の生命の活力源」であるなら、彼等宗教家が云う「呪詛法の目的」は自分達が信ずる[神仏を理想とする理想社会のこの世での実現する為の手段である]となる。
 共生の一方法ではあるが、正しい意味での「共生と輪廻」ではなく、多分に宗教的洗脳にて習癖となった形式的異物に拘り過ぎたきらいがあった。確言すれば、我々の先祖も為政者等も全て[宗教者の生き残りを掛けた巧みな方便]に騙されていた事になる。 眞理そのもの(神や仏)の追求や希求は我々に想像の夢と可能性と、その実現への楽しさを精進と忍耐等を修行と云う大義名分に置き換えることにて、我々の苦悩や我執等から遠離を楽行へと発想転換して、それからの開放を促し、我々の行き方に勇気と活力を与え、目的意識の昂揚へと導いた。それはそれで良いのだが、そこで得た「知恵」の使い方にはこれといった誓約は課せられなかった。つまり、神仏を信じようと信じまいと自由であった。善神仏の御心とは無縁でも良かったのである。
 今、一部の人々によって、宗教とは無縁でも、存在も無く、無でもない神仏としか云いようのない[宇宙の意志=根源的存在]等を認知させられるのも不思議であった。宗教家が[眞に神仏の御心を知りながら]、それ等を「方便」でないと主張するならその宗教そのものが[鬼道]なる恐れが存在して来たのである。
 それは摂理であり法であり真理ある、不可視不可知にして時空を超越した「神技=神通力」等が即「人間の超能力=神通力」あると皮革する事事態がナンセンスであり、神秘のベールの入口を垣間(懐間)見たに過ぎないのであって、我々が知り得た神秘はその奥に又神秘があって、その行為は恒に繰り返されるが故に神秘であり、神秘のベールが果てしなく続くからこそ宗教の存続も有り得るからである。人間が希求する限り「神仏」の存在も有り得るのである。それは追っ駆ければ追っ駆けるほど遠のく「神仏」とも同意義にて類似しており、心の全てを停止すれば身近に存在する「神仏」を我々は知る事となるのと同じだからである。
 最後に日本の神道について略述しておこう。
 日本には、古事記・日本書紀・続日本書紀・宣命等に記述されている様に、天地を創造せられし神々がおられた。祝詞(ノリト)、宣明が仏教の経に変わる物である。その中で宇宙の根源・宇宙意志を象徴したと思われるのは天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が一応主神であった。又、既知の天照大神(アマテラスオオミカミ)は女神にて、光の糸にて布を織る織女であり、その布は世界の運行を織りなし、人々の運命をも司る神であり、皇祖神であり、我々の氏神でもあった。猿田彦神は神々の道案内を務め神々を我が日本に導いた神であり、我々が祭祀する道祖神であり生殖のかみであり塞神でもあった。多神教である神道はこれ等の神々以外にも実に多くの神々を祭祀し、天の祭社だけでも三百数十社にもなり、道教や密教等の神々を含めて、八百万の神(ヤオヨロズのカミ)と称されるのであった。これ等の神々を祭祀するのが神道であり神社であるが、その理想は[神との感応・神々の国(高天原)をこの地上(日本)に再現する]ことであった。又、それはシャーマン的儀礼と言霊信仰に支ええらていた。
 その儀式・儀礼の代表的なものを「宣命」等拾い上げると。
 大占 (占いの一種 亀甲等の割れ方にて吉凶を判断)
 招神・降神法(霊媒者(巫女や神官)に神霊・その他の霊が乗り憑つり、神詞等を述べる事)
 潔済(入浴・沐浴等にて身を清め、神に奏上する事)
 贖罪(神に貢物をして、心身の罪・汚れを赦して貰うこと)
 懺悔(心から、故意・過失にかかわらず犯した行為の罪等を悔い改める事を神に誓約する事)
 祭祀(神を祭り、社を造り、神(神魂)を灌頂招請して、神の命日を定め、お供え物等をし、供養し、祝詞を奏上して神を崇める事)
 鎮魂(心=魂=精神、或いは神魂を鎮める事)
 禊・祓(身を清め(水行=禊)し、神に祈念し、災いを祓い清める事)
 祈祷(マジナイ等にて病気等を治す事)・・・・・・・・・・・・・・・が上げられる。
 日本の神道の神々に対する儀式儀礼は、大きく分けて、神々の御霊を鎮め安寧を祈る「鎮魂法・鎮魂祭」、神々の士気と威光を高揚さす「興神法・興神祭」、不浄を祓い清める「禊・大祓」等に分類できる。 且って、神道はこれ等を主体としていたが、後に、道教・陰陽道・密教等の影響を受けて、禁厭呪符・方術・物忌・厄払い・・・等々が多く行われたのは周知の通りである。道教や神道の何れも「輪廻転生や甦生、蘇り」等を説くが、更に、道教では不老長生・不老不死なる仙人達の居る蓬莱山(桃源郷)を夢見るが、神道では死(冥界)に対する違和感は余り無く、むしろ死者が独り寂しく旅立つ事に対する[悲哀の感情と憐愍の方]等が先行していたようである。
 日本の武士道の「切腹」は罪人としの意識より、死んで我が身の潔白を証明する。罪を我が身一身に背負いて他を助ける。等の意味をも含んでおり、我国独特の死生観を一部の宗教が支援したに過ぎない。
 又日本の明治時代の神仏分離迄は「神も仏も」仲良く寺社に共存して祭祀されていたのは、わが国の独特の宗教感でもあり、神仏習合や神仏融合の思想背景と曖昧性寛容性の賜物であった。此処にも宗教の正道と鬼道の隙間に潜む鬼道の存在を認知出来るのであった。
 さて、以上が主な日本の宗教の余談を交えた説明であるが、ここで、少し整理してみると、
 我々人間は「何処から来て、何処へ去るのか」との問は、概して[神仏に創造され、神仏の御元に帰る]との答が用意されていたようである。だが、神仏の居所(天国・浄土等)は古くは[天空や星]の彼方にあり、我々の魂も天空や星になるとも帰るとも思われていた。時代が下ると、仏教や道等の影響を受けて、極善人には神仏の浄土や桃源郷天国等が用意されたが、極悪人は地獄行となった。極普通の人は努力次第と云う事で、積善如何に依る六道輪廻や輪廻転生が語られた。この頃迄は我々の魂の逝く目標は不確定では有るが設定されていた。しかし近世になると、夢である目標すら否定され、神仏の存在にも物証がなければ信じられない環境が出来上がって来た。
 つまり、敗戦後の教育、経済、科学、外来文化等の発達と影響にて魂の混沌の時代となり、宗教は既成化して画一化してしまい、面白味も夢も期待感も色あせてしまった。其の為に怪しげな新興宗教等に走る者やら、自虐史的な思想が持て囃され、日本の思想史の断絶を招いてしまった。今は極一部の者達によって、復古や自然的生き方を見直されたり、尊厳死等を叫ばれたりする時代へと突入したのである。
 だが、殆どの人は彼等の言葉による大儀名聞等の快い響きに惑乱された。それは彼等が己の主義主張を通さんがためのものであり、結果としてはそれ以外の何物でもない無責任極まる言葉が多かった。
 そこで少し、宗教の云う「方便」を検証し略述して見よう。
 (一)過去において、密教は本地垂迹説のやり方にて、他宗の神々や民間信仰の俗神をも教化し「自宗の仏(如来)・教法・教団等を護る護法神や守護神、使者」等とした。そして天部や明王の地位を与えて未来に「仏となれるお墨付き」まで用意した。彼等邪神を駆使した呪詛法は、自宗の目標とする「本尊による理想社会を実現するための過程」で必要であり、教団を「維持し拡大しようと布教宣教する為」の[方便]であったと主張した。最終的には我々の魂も邪神の魂も全て「輪廻転生」しながらも自ら信ずる神仏の国へと行けると言う、浄土系流が言う広義の「十方往生」世界を用意してその言い訳とするのであった。
 (二)又、且って往時は、外来の先進的文化や学問であったものが、日本の文化に溶け込んで既存の宗教等なったが、最初呪禁道は医学を、陰陽道は天文学を、神道は行政(政)を、仏教や密教等は都の鬼門や護国の番神(守護神)との役割等を荷っていた。時代の流れは彼等全てが外敵や怨敵害敵等を排除する目的をもつ宗教となり、悪鬼神達等を総動員させて攻撃力のある武器として、呪詛合戦を繰り広げて行った。それも又、彼等は「方便」と云うのであった。つまり、それは最終的には「人間の心の悪魔」等を追払うものであり、平和で平等何の憂いもない「神仏の加護にて実現する理想社会」を、この世で実験する為のものだと釈明した。
 (三)確かに、妙なのは彼等[鬼神達]が我々の財や富を益し、健康を守り、人々の欲望をも満たしてくれる[心優しき鬼神達]であった事、我々に取っては[福の神・智福神]達でもあった事である。逆に、宗教の云う[真理そのものと言われる神仏]は我々に取っては欲望を抑制する事を強いる神仏達であり、鬼神達の機嫌を損ねた時のみ必要な神仏と考えられて行った。これ等も最終的には「方便」と云うのであるから、「神仏の加持なる理想社会」と、「真の神仏の現象としての世界」との異点と差異は、当然の如く無視されており、それ等を繋ぐものとしては信ではなく、我々が本来具足する魂の中に善神仏と同じ「性善、佛性、本不性・・・」等があるので、何れは理想社会の実現は可能性があると弁明するのであった。
 (四)この事は諸宗教が我々を納得させようと説明する本地垂迹的説明も、現象としての神仏では、本性的には善で外面的には悪であっても、その逆も又眞なりとなり、我々には時空超越した不可視・不可知な存在としての根源的神仏を「方便」として想定さした事が、却って災いとなり、我々が如何に納得しようとしても、善悪論に惑わされ理解に苦しむ事となった。何故なら、それは超生命体であり、真の解脱者そのものであり、真の解脱者の終局目標である「根源的神仏、宇宙意志の加持力」・・・・等なくしては有得ない世界だったからである。
 こうして、宗教は我々の追求を中世そのまま何の代わり映えもなく、バカの一つ覚えのように同じ答えを繰り返すのであった。その答えとは[神仏の為せる技は人知や言語を超越しているので、我々には量り知れないことであるとか、真神仏は真理そのものである為、言葉にて真実を語ることは出来ないとか、経にも「方便を以って究境すべしとある」とか、全て経典に書いてある事柄は正しい等とし、更には、体得した者達しか理解出来ない為、真実は語れず嘘となり方便となると・・・]等と云う言い訳に終始する。その上、怪しげな宗教的倫理を振り回しながら我々を説得しようとするのであった。
 確かに彼等の言い分にも一理はあるが、そこに至るには我々の心の大いなる変革が必要な世界であり、時空を超越した神仏の世界は、その加持にて出現する現象としての世界は「この世」であり、「悟りて見ればこの世は花盛り」であり、「神仏は遥かなるに匪(アラズ)、心中にして即ち近し」・・との発想転換である。
 だが、現実の宗教は、我々に墓と先祖供養という足枷かけ、布施と云う名目の上に胡座をかく現状を地で行く現在の既成宗教の姿を見る限りでは、シラケムードが先行し、新興宗教に心の安らぎを求めるのも当然だろう。何故なら、本来、宗教とは、魂の拠り所を探しさ迷いながら、その葛藤の中で、我々と共に悩み苦しんでこそ宗教なのであり、明確に「皆さんは真の解脱者にはなれないが、神仏の加護と慈悲を信じて、共に精進努力しましょう」と云える宗教こそ宗教であり、目的が希薄化した宗教は正に鬼道邪道となりつつある宗教と云えるのである。又其処には、神仏の存在をこの眼で確かめ無いと納得出来ない我々の性急さ、後先を考えずに他を当てにする我々日本人の弱さにも原因があるのであろう。又、上記の如く全てを不可思議性や経典の中に埋没さしたとしたら、信仰の存在価値すら失い兼ねない。謎とは、解らないが故に神秘であり、解けないから、神仏への信仰の存在価値があり、解ければその存在価値はなく、次ぎの神秘へと変移するものである。たが、それは又、我々が近付けば深遠となり、益々巨大化するもので、「祈祷や呪い・鬼神の妖力・神通力」等の如くの低次元のものでは決してなく、もつと崇高なものである。
 全てが法性であるなら、全てが天恵となる。天恵が望め無い現実に直面している我々には、天恵にも限界があると認識できる。天恵に限界があるなら、それは全てが法性であるとは云えなくなる。天恵に限界があるからこそ個人個人がその責を負うことになる。それ等は貴重な共有財産となり、使用した者、価値を認めた者がその責を負う事になる。上記の事柄を否定するなら、それはもはや宗教であっても宗教では無いのと同じである。何故なら、神仏はこの様な論理を越え、この論理を包む存在だからである。 方丈記に「世に従えば身苦るし、従わねば狂せるに似たり・・・・」と。