(五)現代の鬼道法(救世主伝説、先祖伝説、霊魂)
 少し、余談となるが、我々がさりげなく[心]と呼んでいる我々の精神活動を私考しておきたい。
 周知の通り、心とは、我々人間の精神活動の根本となる認識作用の[知、情、意]の本体(精神=魂)の事であるが、その中で知とは物事の理を「知るとか、認(覚)とめる」等の意味である。情とは人間の生まれながらの美しい心の意から転じて「我々の心がモノ(対象)に感じて動く作用(働き)」の意味である。意とは心を抑制し記憶する意から転じて、知、情のもとになる意識にて「考える、思うの」意味である。この意の中には反復にての学習能力もあり、又、習癖となる部分が存在しており、それが時には忘却し、時として幻覚等の様々な意識作用を営んでいる。
 現代の我々にはこれ等全てを含めて、生命活動に付随する我々の脳の働き、五官の働き等であるとも理解している。又、脳=心=魂であることも理解しているのである。 だが、此処まで至るには、我々の先祖が何度も思考錯誤を繰り返してくれた賜物である事を忘れてはいけない。
 我々の魂を(イ)中国流に解釈すれば、巡り歩く運と立ち込める芸との形成から転じて「生命を主宰する精気」の意味となる。精神(心=精気)を主宰する陽の精気が[魂]、肉体を主宰する陰の精気を[魄]と言う、死ぬと魂は宿業の重さがない為に天上に昇り、魄は宿業の重さにて地に繋がれ地上留まり、生前の善因善果の軽重により、この肉体を主宰する「魄」が或る期間だけ地上に留まり、その後に輪廻転生すると云う。つまり、中国流霊魂とは運命を含めての万物の「気」としての霊魂を云うらしい。(ロ)インド流の解釈では精神(魂)はアートマン(自我)とブラフマン(大我=梵)から出来ていると云う。ブラフマンは極大にして無限、アートマンはアトム(元素)の語源にて極小にして微細をいみする。普段は一体不可分だが、死ぬとブラフマンは天上に帰り、アートマンは地上に留まると云う、輪廻転生するのはアートマンだが、人々の業(カルマ=行為)が魂の自我(アートマン)を繋ぎ止め、輪廻さすと説明している。つまり、インド流霊魂とは誰かの賜物で、全ての物に元素的構成要的に付着(一体不可分)して存在し、夫々に識性がある事を霊魂と云うことらしい。(ハ)我国日本では精神は霊(タマユラ・ダマ)であり、タマであり、ユルであり、命(ミコト、ミコ、イノチ)であった。大国主の尊の言葉を借りるなら、奇魂(クスダマ=悪霊)、幸魂(サチダマ=善霊)であった。霊=魂は口を揃えて雨乞いする意から転じて「ものの本質と考えられる全て」であり、精霊であり、命であり、活動源であった。肉体は輪廻転生しないが、精神(霊性)は輪廻転生する事は勿論、蘇生、再生出来ると云うのである。神道の呪文の一つに「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十(ヒィ、フゥ、ミー、ヨー、イッ、ムー、ナナ、ヤー、ココ、トォ)、古辺由良由良(フルベユラユラ)」と言う呪文が有る。フレベユラユラとは我々の魂の事で、数が増すように後戻りする事無く、子孫繁栄と息災、そして魂の活力を高める等の効験があるといわれている呪文であった。つまり、日本流霊魂とは生命の源であり、振るい立て回転し発展する我々の活動源であるとして把捉されている。そして、霊魂には個々にエネルギーが具わり、夫々に資質的差異と強弱がある為、霊魂を活力源とするための意志力とその方法、目的が問題であると云うことらしい。 
 さて、諸宗教は我々の心を深く掘り下げ、深い内省と思索の中から、人類共通の悩みである[生と死]について、神仏との感応を得て神秘で人知を越えた神秘謎に挑戦を試みた。その結果は、神仏否神仏が創りし者である我々そのもの、否、神仏が創りし我々の深層意識の奥底に、神仏と感応できる覚醒能力と言うべきものがあり、神仏の「言葉無き言葉のメッセージを理解できる覚知能力、認識能力」等があることが判明した。だが、他方、我々の心が=脳のその表層部分には「食欲等の欲望を司る本能と同じ感情」等が、それを覆いて存在していた。その本能のもつ好悪感情からか、我欲我執にて有りもしないものに執着してか、邪な考え(煩悩)にてか、動物的本能なのか、定かでないが、諸宗教はそれ等が覚性能力を妨げるもので有るとの考えに到達した。彼等はそれ等を内外の魔性や悪魔等と断じ、悪鬼神邪性の誘惑に極端に弱い本能的野生がある等とした。そして我々の心に棲む魔性として感知したのであった。又、彼等は、それを祓い清める方法や撲滅する方法、或いは教育する方法等を考案し続けた。それ等の何れもが、鬼道法を生む原因でもあった事は周知の通りである。都合が悪くなると、諸宗教は又、我々が我々の潜在意識の内にある幻覚の世界(魑魅魍魎や妖怪変化の棲む世界)等に惑乱され、その幻影に怯え苦しむ姿を投影(全て我々が認識しているものは虚構にて、心の所成で有ると云うこと)しているに過ぎないと説明したのであった。 たが、我々と共にこの幻覚の世界を覗いてくれる宗教家は必要ではあるが、真の宗教家では決してない。何故なら、覗くだけなら霊感師達で充分だからである。
 真の宗教家は神仏との感応にて、自らの深層意識の最奥底にある魂(古井戸の魂)から人類共通のメッセージを汲み取り、それ等を翻訳してそれを伝えた。又、幻覚世界とは如何なる物か等を説明し、脳の表層部に棲む魔性の統御とその付き合い方を指導して、我々の悩みに応えるのであった。それは答える義務があったるからである。そうでないなら、ただ単に、問題を提起するだけで、何の解決策をも模索しないのと同じで、我々を狂人扱いしながら、治療もせず野放しにしたのと全く同じだからである。
 科学は我々が遺伝子を持つようになった時点で、約五億年前に「生と死」等が遺伝子にプログラムされたと説明する。何故、遺伝子が出来たかは説明不足だが、その方が環境共生を高めるからなのであろう。
 現代科学は遺伝子の領域に挑戦しており、人間の寿命も心拍数とは関係がなくなり、物の豊かさにて動物の象並の寿命となっている。此処にも、宗教等の恐怖の催眠と鬼道法と云う落とし穴がありそうだ。
 さて、上記意味を含味しながら、現代日本の宗教の鬼道法を分けると、大きく次ぎの三種に分類出来そうである。
 (一)、救世主伝説による排他的呪詛法
 (二)、除霊(浄霊)法と称する霊的呪詛
 (三)、霊能力、超能力、霊感等を売物とする妖誑的呪詛法・・・・等である。
 (一)救世主伝説による排他的呪詛の(イ)「救世主伝説」とは出典を西洋の旧約聖書の創世紀、新訳聖書のヨハネの黙示録、ノストラダムスの諸世紀、東洋の月蔵経、観弥勒下生経、法滅尽経、日本の古事記、をのこ草紙、御伽草子・・・等によるものであるが、何れも明確な根拠にかけると思われる経典や聖典・偽経や雑書、説話等であった。
 それはともかく、説く所の内容は何れも大同小異にて、神仏が今世紀末(19世紀末)に[人類滅亡の破局を向かえる]と預言した等と称し、ノアの箱舟、天の羅摩船(天の鳥船)等の再来、末法思想の救世主、弥勒菩薩再来伝説等々の救世主が我が教団等にのみ訪れると今も信じ賢伝している輩が構成する宗教等がこれ等に属するものである。
 彼等が出典とする偽経である法滅尽経の末法思想の記述には
 「僧侶たちが教団で禁じている衣服等にて装飾し、酒肉を喰い、自分の財産や金銭等を蓄える事に執着する事に精進努力すれば、次第に佛法が滅び行きて、社会規範は無視され、無秩序となり、疫病等が蔓延し、やがて、人間の寿命も尽きてしまうであろう・・・・・云々」とある。
 つまり、末法の世に生きる破壊僧侶達を戒めている。彼等(破戒僧達やそれ等と同等の輩)はこの経・・・等が説く末法思想等を準拠とし、更には、神仏からの託宣預言等を得た等と称したり、今世紀末には天地異変・戦争動乱、疫病奇病・・・等画ある等と称したりして、それ等を含めて、地球が壊滅するような事件等が起り、人類は今世紀(20世紀終わり)に滅亡するなどと異口同音に云うのであった。
 だが、この法滅尽経の経意等から類推すると、我々に対する警告と云うより、社会の精神的指導者、魂の救済者である「僧侶達や聖職者達、神官達」への警告だと解釈すべきものであった。
 又、他の何れの経や聖典や説話・・等の預言や神託部分等を検証して見ても、何時何時何処で、どのようにして、何が起るのか、教団内か教団外か・・・等も判然としない実に曖昧で不確定な表現にて語られていた。内容も「信じる者は救われる・神仏の真勅」等調にて、先にて、引用した誰の作かも不明である偽経と云われるものが結構多く、その内容も代表的偽経の法滅尽経と殆ど同じで大同小異のものであった。 
 さて、これ等の教団の特色は前記経典等の預言神託等の内容を前後左右の意味を無視し、自分に都合の良い個所のみ抜粋し、得手勝手な脚色に解釈を加えていた。更に、教祖や教団の指導者等が神仏から直接、託宣、預言、霊夢、超常現象、霊感占・・・等々を得たと称し、自らをも誇大宣伝し、教祖自ら神仏の生まれ変わりだとも偽称して憚らない「カリスマ性ある教祖達」が多かった。又、その彼等に引率され洗脳されて組織化した集団(新興宗教)も殆どであった。それ等の信奉者は時として、神であり専制君主でもある教祖の云うままに支配され洗脳されており、教祖と共に世紀末や世の悲惨さを煽り、反社会的行動を繰り返し、社会の批判や社会の少々の弾圧も怯まない宗団教団でもあった。教団有事の時は「カルト宗団」に変身する恐れと教理があり、魔性的雰囲気がある反社会的で閉鎖的選民意識がある集団宗団教団だが、今も現前と多く存在しており、結構信奉者が多いのにも驚かされるのであった。
 次に、救世主伝説による(ロ)排他的呪詛とは信者の奉仕活動と称する巧みな信者獲得の為の勧誘活動を行い、教団の資金活動に於いてのみ社会的交流を行う教団である。他宗には悪口造言を浴びせて云いたい放題を云い、勧誘した信者達には我が教団の信奉者のみ救われる等の選民意識を抱かせる排他的洗脳教育をし、教祖のカリスマ性と独裁と専横にて畏敬と恐怖心を抱かせ、逃亡を阻止し、全てが我田引水的解釈を徳目として、排他的で独善的行為を平然として行える人間(信者)等を育成し、「親、兄弟、親戚、友人、周囲の人々」等の忠告や意見にも耳を傾ける事を一切しない、のみならず、神は何をしても良く、解脱者教祖の云う事は全て善であると公言し、屁理屈だけは超一流な教祖やその狂信者達が構成する「恐怖の詐欺的宗教宗団」等を言うのである。その信者達は、働く事を拒否し、親、兄弟、配偶者、子供等の働きし金をも勝手に持ち出し、その言い訳たるや、世の中の不浄なお金を、人々から如何なる方法にても取り上げる事が、貴方も、私も、神に救われる道である・・・・と。宗教的表現を借りるなら、大悪神に諂い集う悪魔達の集団であり、善神や亡者達が体悪神(悪魔)の奴隷となり扱き使われている姿だと言えるものであった。教団内部では教祖が絶対の善神佛として君臨しており異種独特の雰囲気を醸し出している。更に、信者達は或る教団に恐怖の宗教的不眠不休の洗脳にて思考不能の夢遊病的催眠状態に追い込まれ、教団の為ならどんな悪行も嘘も平然と云えて行える人間に人格を変更され、恰も、先の厭魅蠱毒法の人間版を地で行く如くの教育方法が取られている宗教教団でもあった。
 且って、鬼子母神が自分の子供の為に、人間の子供を餌として与えたと云う仏教説話があるが、これらの教団はそれ以上の残虐性があり、信者は勿論、何の罪も無い関係の無い他人にまでも、神仏に救われる等と称し金品を要求し、教祖自らの強欲を満たす為に、私腹を肥やす為にのみ、残忍残虐な独善的行為を悔悟することなく平然と続けられるという魔性の神経は、真さに、悪鬼神であって、鬼神母人以下であり、人間のやるべき行為とは当低思われないものであった。
 思うに、前記、各種の預言は古聖達が我々人類に托せしメッセージであると云うなら、彼等宗団への託宣でもメッセージではない事となる。彼等宗団への託宣なら人類全てへの警告としての意義はなくなる。むしろ、彼等自身がその責を負うべきであるとの教団へのメッセージだろう。彼等宗教者達への「堕落への預言と警告」だと判じられるものである。 
 少し余談と成るが、何処かの国が核兵器を所持し、核のボタンを押すぞ、押すぞと強迫する行為と恐怖の洗脳とは同じ範疇と思われる。核の抑止力を神聖視しその妄想に執り付かれているのである。若し、間違って誤って誰かが核ボタンを押すなら人類を破滅に導くシナリオが出来上がる事は誰もが承知している。だが、実際に用いるような事はしないと思いながらも、核にての抑止力の幻影のはたす役割は、今でも大なのが不思議で不可解な事なのである。
 若し、それが実際に用いられるとするなら、用いた国も破壊してゆくのは勿論、自然破壊・環境破壊等を含めてその破壊力放射能等が問題となり、世界の平和に壊滅的な打撃を与える事は自明の理なのである。国際社会はそうならないように非核三原則を掲げ懸命に努力しているのでのである。
 日本霊異記ある説話の一つを紹介しょう.奈良東大寺の別頭永興僧正か熊野で修業していた頃、ある男の病人が運ばれて来た。永興が病人を治そうと祈祷を始めると病人が苦しみ出した。 病人曰く「我は狐なり、無用な事をするな。禅師の調伏には従わない・・」と。永興が「何故か」と訊と、男に憑依した狐は「この男は前世で我を殺したので、その恨み(憑いて)を晴らしているのだ。だが、この男は死んだら犬に生まれ変わり、我を殺すだろう」と。一年後、永興僧正に憑いた狐は見舞いに来た里人の犬に噛み殺され、狐の預言が的中したと云う話である。仏教の因果応報、輪廻、自業自得の教訓なのであろう。
 又、現代の哲学者梅原猛博士はその著「ギルガメシュ」に於いて、都市文明を作ったギルガメシュが最初に行ったのは森の神フンハバの殺害であった。それは森林破壊からの禁忌(タブー)からの開放であり人間の自然支配の最も明白な宣言であった。所詮近代文明はこのようなギルガメシュの文明の延長上にある。ギルガメシュが科学技術と云う武器を持つ事によって、その自然の支配力破壊力を何万倍・何億倍したに過ぎない。核兵器は人間と他との共生は勿論、他の生物との共生をも根本的に脅かす武器である。様々のこういった自然破壊は、今迄人類がそれによって培ってきた支配と進歩の理念の間違いを教えてくれる。―中略―「共生と循環の原理」からみれば決して許されることではない・・・・と。又「共生と循環の原理」がこれからの哲学の課題だと指摘する。 
 これ等の事を宗教の正道的にて云うなら、全て地球内の生物は夫々が何等かの役割があり何一つ無駄なものはない。地球そのものは彼等の存在や生態系を崩さぬようにバランスにて肯定している。地球の生物の中で一番横暴なのは人間で、他の生態系をも平気で崩している。我々人間は我々の仲間である他の生物に対する思い遣りと母なる地球に感謝し、せめて、未来に良き輪廻の実現の為に共に生前の努力怠らず、死後「中有=中陰=死後四十九日間」に良き転生を果す努力も必要だと云うべきだろう。
 (二)除霊(浄霊)法と称する霊的な呪詛とは出典を、定命論と云われる易書の三世相大雑書や仏教の釈迦如来の法話、十二縁起論等を説く増一阿含教や涅槃経、北インドの世親、無着兄弟の唯識論に説く阿羅耶識縁起、地蔵菩薩の地蔵十輪経等に説く六道輪廻説、道教の俗説が信じられて慣習化した庚申会等。インド俗説、地獄の王の閻魔、外に俗間の悪霊、悪魔、妖怪・・・等々の説話伝説を根拠としているが、それ等の方便の真意を曲解し脚色した除霊等を目的とする霊的な呪詛を行う宗教集団だと云えるものであった。云わんとする要旨は大体大同小異であり、仏教の「縁起論」捩りて解釈し、我々の寿命の長短や幸不幸の原因、貧富の差、災悪生まれ状・・・等々になるのは前世(生前)の貴方の宿業の所為にて運命付けがなされていると云う「宿命論、定命論、宿業論」等の思想を加味して説明し、現在の幸不幸の原因は全て、因縁の障りとか霊障にて起るので、除霊かお祓い等が必要だと主張した。要するに、先祖の悪霊、土地の地縛霊、家宅等の憑依霊、邪霊、水子霊・・・等の邪霊の仕業にて、現在の貴方の不幸は存在しているのだと説明する怪しげな宗教宗団を言うのである。 
 業とは前述の、インドの神話バガヴァッドギータによれば、輪廻の世界に我々の魂(精神=魄=アートマン=我執=感情?)を縛っているのはカルマ(業=行為=心を肉体に留めている妄執)であるが、業は万物に生命を与える創造の力であるとも説明している。これはこの通りたが、彼等はこれを、宗教(東洋)の知恵である縁起論(縁起=因縁生起=妄執=空=関係性=0)を低俗な因果論に変えて、自分等の都合の良いように脚色し、見事に反転させた。即ち「四恩十善・因果応報・善因善果の方便としての倫理法則」等を、遺伝的要素等迄を排除し、知り得た知識のみにて「霊魂の永劫の存在を肯定し有的に把捉」して「幸不幸の原因は全て邪霊の祟りや障りにて起こる」等と断言し、縁起論を低俗な「霊性的縁起論・宿命論・定命論・因果論・・・等々」に様変わりさせたのであった。我々には生前の記憶がないので仕方か無いとしても、過去世(生前=死後)迄も束縛されて、その宿業悪業が故に今世があり、更に今世の業にて来世が有ると言われても、反論出来ないが、更に、先祖の霊魂や親縁の霊魂、水子、無縁佛迄等の悪業の罪科迄も追加され一身に背負わされるに至ってはその遣りきれなさは如何ともし難い。
 且って、庚申会云う慣習があり、庚申の日に、我々の身中にいる三戸虫が我々の寝ている間に、我々の悪事を天帝に報告すると云うので、その日は寝ず、また、神仏を祭る〈ミザル、イワザル、キカザル(猿)〉風習があった。此処には未だ人間に対する倫理が見られた。だが、これ等を応用した宗教の中には神仏は何でもお見通しと云う意味に加えて、過激な強迫概念を植え付けようとする魂胆が丸出しで、我々の意識の習癖を悪用し、妄想による幻覚症状を喚起させて、自らの言動を正当化し確定させる行為は、これでも宗教家と思える位劣悪な者達が存在していた。更に、人の一生、生前中の罪科を判定して、死後の我々の魂に罰を加える地獄の王の閻魔大王までも登場させる始末。たが、六道輪廻の辻に立ち、我々を善き方に導いてくれる救いの神、地蔵菩薩も登場されて我々はホッした安らぎを得た気持ちがする。だが、彼等によって「人間として生れた事自体も宿業で、その罪禍を負う・・・」等何度も何度も聞されると、我々は到底、六道輪廻の世界から、一部の者を除いては、到底逃れられないとの諦めを一層強固にしたに過ぎないと説得され、同じ解釈に堕とされるのであつた。
 それでは我々は一体どうすれば良いのか、彼等は云う[幸不幸の原因は、全て因縁の障りや悪霊の祟りからおこる。依って、除霊法、浄霊法、お祓い、供養法・・・等を施行しなさい]と、何の事はない、自ら罪を他人(霊や魔性)等の所為にして、罪を逃れとする魂胆が丸見えである。水子の祟り、先祖の祟り、地縛霊の祟り、餓鬼畜生霊の祟り・・・等何でもかんでも[祟り流行り]とし、而も、占い、口寄せ、依坐、巫女等の霊媒師、霊感師達等にて、確定させるあたりは、真さに、霊に対する「霊的呪詛」であって、霊(死者の魂・生霊、邪霊・魔性)等に対する尊厳も恕もなく、非礼極まり無い行為と云うべきだろう。
 神道の神であり、七福神の内、唯一の日本の神である恵比寿様は、手足無き我身の醜さを人に見られる事を忌まれた。そして、このタブー犯した者には戒めとして罰を与えたと云われている。この様に我々の先祖霊やその他の霊であっても、人に知られる事を恐れる秘密は、我々同様に存在したことだろう。彼等のように、何の感情も無く目的意識も判然とせずに人の墓の秘密を暴く様な行為は、逆に彼等こそ霊からは、憎むべき、祟るべき人間として、霊に祟られ、鬼神に呪われ、邪礼に呪詛され、怨霊に追い駆けられ、霊等の餌として憑かれるのは当然であろう。常に、有りもしない偽言を云っては死者を怒らせ、霊に追っ駆けられ、霊に憑依されているので「彼等は幽霊にも似た異様な独特の怪しげな雰囲気」醸すのだろう。
 大聖釈迦如来の十大弟子の一人、神通第一と言われた目健蓮(モクケンレン)が神通力で、自分の母が地獄の業火にて苦しむ様子を見て、師釈迦如来に救いを求めた。釈迦曰く「異次元(井戸の奥底にある魂)に沈める魂にいくら上(天界)に上(上昇)ってこいと叫ぼうとも神通力を掛けようとも無駄であり、無意味である・・・と。お前が母に代わって善行(供養)を積むことが、母の魂を救う唯一の方法である・・う」と。
 釈迦如来は答えている。これが、盆の始まりである。この通り実行すると、目健蓮の母は極楽に蘇生したと経に記されている。孔子は又、「祖霊(鬼)以外を祭祀するのは諂いなり」と云い、又、現代の世界的著名な霊感師は[霊視する事と開運する事とは別である。私は見ること(霊視)する事は出来るが、開運することは出来ない]と。菜根譚に曰く、[釈氏の随縁(仏教の縁にまかせること)、吾が儒の素位(地位に安んずること)、四字はこれ海を渡る浮嚢なり、蓋し世路茫々として、一念全を求めれば、則ち万緒紛起する。寓に随って安ずれば、則ち入るとして得ざるはなし(安心立命の境地を見いだせること)・・・]と。現代の名僧天台宗の官主(1994寂)は法話にて、開運とは、自分の努力と、人々の支援と、神仏の加護にある・・・・と。
 これらの言葉こそ深き思索と禅那から感得した人間の精神の奥底に有る魂からのメッセージなのである。祖霊を祭祀する追善供養、布施、四恩十善等の教えはこのような心にての事柄を云うのであろう。
 (三)霊能力、超能力、霊感等を売物とする妖誑的呪詛とは、出典は特定出来ないが、要するに、新聞、雑誌、マスコミ等にて、誇大広告をして人々を集めて、或特定の物や者を全ての事柄「開運効果がある万能薬や万能霊験のあるもの」の如くに宣伝し、怪しげな霊感商法にてそれを「法外な値段で押売する」宗教団体の布教活動の在り方を云うのである。
 不可思議なパワーを「神仏や霊」等から、ある日突然に霊能力や神力、霊夢力等が授かって大儲けしたと称し、何かいわく憑きの品物等を巧みなセールストークにて売り付けたり、不思議なパワー等を授かつた云う教団の教祖が祈祷し祈念したりした等と称して、それ等にものに怪しげな霊能効能付加したり、創作したりして、マスコミを利用し、偽の例証を真実のごとく吹聴し、脚色し、幸福を得た、託宣等にてこれを飲めば難病が治った等とか称し、薬事法違反もなんのその、法外な値段で品物を売り付ける行為を堂々と横行さしている宗教集団のことである。それは詐欺師達であっても、宗教者達では決してないからである。そして又、彼等は苦情が来ると「霊験の無いのは貴方の信仰が足らないからだ。もう一度心を改めて挑戦して見なさい・・・・。」と。
 更に、信じれば癌でもどんな奇病もどんな悩みでも治せる等と豪語している鼻持ちならぬ連中(宗教)でもある。恰も、妖誑道として弾圧された奈良朝の呪禁師達と同一レベルの宗教であり、宗教の名を騙る詐欺を行う詐欺集団である。何故、警察が取り締まらないのか、法にて裁かないのか、野放しにするのか、不可思議なのである。 
 祈祷とは、厳密には[加持祈祷]と呼ばれている。加持祈祷宗と呼ばれて多くの超能力者や霊能力者を排出した真言宗.天台宗の重要経論である一行の[大日経疏]には加持を説明し『加とは、仏日の光が、行者の心水に映ずるを云い、持とは、行者の心水が、仏日の光を受持するを云う…云々』と説明する。
 つまり、前にも説明した通り、本尊大日如来の加被力と、行者(僧)と信者(依頼者)との功徳力が、信を通じて、意気投合し、お互いに融和感応して、信者の本来持つ功徳力が開眼されて、効験となると云う事であろう。これなら「共生と輪廻(循環)の原理」をも信義を通じて満足するものである。だとすると効験とか、霊能力とか、超能力とか云うのはキリスト教の三位一体説の様なもので、決して過酷な修行によって得られる永続的な効能を云うのではなく、本尊と行者と信者との三者が、融和感応して、信者の持つ本性の力が、善性が開発されて、顕現する刹那的なものであり、人倫の道を踏み外すことがなく、而も、個人個人においては固有の霊験であり、心即魂の救いでなければならないからである。それが経に云う処の「以我功徳力・如来加持力・及以法界力」である。これが真の神通力や超能力との意味であり、先ずは、自分の努力があり、人々も次第に賛同し、個々の魂に働きかけ、拡大して行く、そして己の善性が開発され、感謝の心を通じて、自然に発動する霊性的作用が真の神通力であり超能力である。効験の持続は感謝と恕(おもいやり)の心のみが繋ぎ停められる固有の奇跡なのである。奇跡とはこのようにして起こるものである。故に、刹那的奇跡神通力等を「興るとも、興らないとも云えない」と表現するのが真の宗教であり、真の宗教家達である。逆に、超能力・神通力等を得るのが宗教の真の理想で目的あると説く宗教は、邪教であり鬼道師達なのである。
 彼輩が多くの方便を弄して、科学的技術や薬草学、気孔術、鍼灸術、呪符、催眠術、幻術、魔術、霊視、テレパシー、オーラ、遺伝学、易学、仙術、占星術・・・等を持って、超能力師、霊感師等を自称するのは百年早く、それ等は宗教でも宗教家でも勿論なく、只の詐欺師か奇術師かマジナイ師であり、又は普通の治療師達に外ならない。それ等は全て信義ある「共生と輪廻の原理」に支えられて初めて意義があり、使う者がその責を負うべき技術である。他の全てを排除し、宗教の方便を利用し、外儀的なパフォーマンスにて人を集め、欲望を満たす事を目的した事が、このような宗教を容認し、堕落して行く道なのである。
 又、我々は確かに他からの生命エネルギーにて生き生かされている。そこには物にたいする感謝と恕は必要である。だが、ありもしない効能を付加し、法外な値段にて物を売り付け、その宗団を維持する為の資金に満てる行為は、物に対する呪詛であり、破壊であり、商法であっても、宗教として、到底社会的にも人道的にも容認出来難いもので、餓鬼、畜生にも劣る鬼道と云わざるをえない。
 それ等の行為は従来の「支配を進歩で科学技術であると解釈」して、善なる行為として大義名分を与えた文明の誤算の歴史であり、我々が最初に捨てねばならなかった老廃物なのかもしれない。恰もそれは、鋳型に入れて作りし、大量生産した安価の仏像・・・等に有りもしない付加価値を付加して法外な値段で売リ付ける何処かの宗教の寺社と変わりが無いからである。又、霊障や霊の祟り、供養を専門とし、我々の弱みに付け込み、迷える死者達が成仏する為だ等称したり、災難に見舞われるのは先祖に関係する等と称して、法外な供養料、高価な戒名代、墓地料・・・等を請求する寺社もこの類だろう。カセットテープにて檀家参りする僧達がまだまだましなほうだと言うから驚きである。