(三)奈良朝の天文学者は、悪霊払い、神怪祓いの専門家(陰陽道の世界(式神法+厭魅蠱毒法)
呪禁道と時期を同じくして、日本に伝えられていた学問として陰陽道(オンヨウドウ)=(暦学・天文学・気象学の類)が有った。前述の如く、最初は呪禁道が隆盛と成ったがその後、勝宝四年(七五二年)頃、入唐し、直接日本に陰陽道を持ち帰ったと言われる吉備真備(六九三年〜七七五年)が黒幕となり、先の呪禁道を弾圧し排斥した結果、陰陽道が奈良朝の中頃〜平安朝の中頃迄隆盛を極めて行く事となったのが、日本にて宗教化して行った陰陽道であった。密教が次第に勢力を強めて来ると一時期停滞した。
(参考、吉備真備の帰国後に入唐し、密教を持ち帰ったのは真言宗の開祖弘法大師空海(七七四〜八三五年(東密))と天台宗の開祖伝教大師最澄(七六七〜八二二年(台密))であった。何れも、帰国後、平安朝にて受け入れられ、平安朝の二大宗教となり、隆盛を極めることとなって行った。後の日本の仏教はこの二大宗教に多大な影響受けて行った。例えば天台宗からは後に、法然(浄土宗の開祖)、親鸞(浄土真宗)、蓮如(真宗)、空也・一行(念仏集)、日蓮(日蓮宗)、道元(曹洞宗)、栄西(臨済宗)等の各宗の宗祖を生み出し、真言宗からは理源大師(醍醐三宝院流=修験道)、覚鑁新義真言宗の開祖)等の名僧(宗祖)を排出している。修験道が神道・陰陽道と結合し山岳信仰を盛んにし、両部神道なるものや色々な宗派を乱立させ興亡さしたのは周知の如くである。)
その後、陰陽師阿部清明(九0二0年〜一00五年)等によって、再び、陰陽道が勢力を盛り返す事となった。陰陽道の今に知られる名家は阿部(信太妻伝説・清明神社)家と加茂(加茂神社)家の両家である。
さて、陰陽道の陰陽とは五行説(万有(宇宙)が木火土金水の五元素から成立するとする説)に対して、陰陽論と言われる学派で、森羅万象全てが相反する性状を有する陰と陽の気から成立するとする説であるが、両説が一定の秩序と法則に従って相依相関しながら、万物を生成変化させながら構成すると説く相関論的素成論であったが故に、後に、五行説と陰陽論が併合し、陰陽五行論となり、易学、天文学の原理論となり、暦(大陰太陽暦)等を完成さして行ったのは周知事柄であろう。陰陽、五行、陰陽五行等は何れも東洋の根幹となった哲学で主に中国で開花した重要な哲理であった。後にはこれ等の哲学は儒教・道教と共に宗教化した哲学でもあった。中でも特に陰陽説は中国民間道教の仙術呪術信仰と結び付き陰陽道となり、日本に於いて神道と合流し、日本の陰陽道として完成され開花した宗教である。後、中国の南宋の儒学者朱子は宇宙の根本原理を理とし、陰陽を気として、理の現象とした。又、陰陽の気を支配するのは理であると説くに至ったのであった。 <朱子(朱煕1130〜1200年)は朱子学=(儒教系流)の創始者>。
さて、日本の律令政治の中では前述の呪禁道が典薬療の医学部門の専門家として遇せられたのに対して、陰陽道は中務省(現在の国務省)に陰陽(気象庁)療を特設して特遇した。暦学、気象学、特に天災等の異常が起りし時の原因究明とその対策を審議する当時の最高学問所、現代の科学アカデミーに相当する所に配属されたのであった。そして、彼等は陰陽説五行説の根本思想である易経の[万物は、常に変易する]から、一歩前進して、「一定の秩序と法則に従って、相関[比和、相生、相克]し、生成変化を繰り返しながら、万物を形成する。」との説を、次第にその原因、対策を検討する事等から、当然、未来を予知し、開運できる予知学・予防学としての占術としても活用出来ると解釈して行ったのである。それはつまり、日本に入ってきた陰陽道が宗教性を帯びていた為、儒教系か道鏡系か判然としないまま日本に入り、仏教・道教の呪禁道・神道等の思想と併合したから余計に判然としない不可思議性があったのだろう。とにかく、彼等陰陽師達は少なからず予知能力があり、それ等を用いて総ての事が開運出来る超能力がある専門家である等と称し、自己賢伝していった。
そして、彼等は道教系の呪禁道の厭魅蠱毒法、神道の言霊と精霊信仰等を吸収し、変革しながら、陰陽説の陰陽をも、邪気(魔性・悪霊・邪霊・悪鬼神等)を正気(善気・生気・善霊・聖霊・善鬼神等)に変えて、呪術的呪詛法に解決策を求め、勢力を拡大しつつ、日本の宗教としての陰陽道を独立させて行く為の土台作りを企図したのであった。気の流れを等も重要視したのがこの陰陽道である。
(参考、陰陽論とは宇宙の混沌状態を太極と云い、分かれて陰陽ととなり、更に、陰は少陽と老陰に、陽は老陽と少陰に、更に分かれて八卦となる・・・となる。つまり、筮竹等で占う周易。撰吉、家相・・等を占う気学系流等へと発展して行ったが陰陽論である。又、中国道教の陰陽道仙術の内、特異な呪術として発爐と云われる法があり、体内の神気を呼び出す法や雷神、火神を駆使する法等が有ったと云われている。
それはさておき、当時の占い方法等としては甲骨、壷、皿等の割れ方に依って吉区を判断する場合や、筮竹、遁甲盤、ホロスコープ盤・・・等で、判断する場合等があり、種々雑多で有ったと想像出来る。又、式王子とは占いに依って出た結果に基づいて決定される本尊となる神様の事であるが、元来は占いの守護神、護法神であり、十二カ月の月将神でも有ったらしいが、それに限らず、自然界の多くの精霊達も多く使用されたらしい。後には密教、神道の神々も多く使用されていった。その主な原因は、呪者が敵対する呪者に自らの式神を知られる事は、自らの命取りに成り兼ねない為に、術者の本尊知られ事を極端に危惧し恐れる余り、色々な式神(使い魔・めくらまし)を用意する必要が有った為とも云われている。)
さて、陰陽道の呪詛法の手順は次の如く行われた。
先ず、筮占(マジナイ盤)=識(式)盤にて、その原因を占う。それによって式王子(シキオウジ 識神・式神の親分格)を本尊として灌頂し祭祀する。
そして、式王子が決まれば、祭祀する為に灌頂招請する。灌頂が終了すると、霊符(呪符)を作る。この霊符は呪禁道の厭魅蠱毒の魂魄を封じた様式要領にて作られる。彼等はそれを使い魔(式神)として(今の護法童子)式神=識神等と呼び、式王子(式神の親分格本尊)の力にて、これを呪縛し、呪符等として持ち歩き、操り、怨敵を呪詛する方法であった。
つまり、鬼神の親分格を式王子として祭祀した後、厭魅蠱毒法を応用した方法にて作りし呪符にて、悪霊、妖魅等を封じ、呪縛して、式神として支配し、呪う相手(敵)を仮想現実(魔界)に追い込んでから、怨みを晴らそうとする。陰湿な上に少々高度なテクニックと過酷な修業を必要とする幻術的妖術的自然科学的呪詛法であり、人々を鬼道=鬼門=邪悪な者の集まる処=魔界=異次元の世界に誘い込む・・・と云うもので、なかなか手の込んだ準備と用意が必要であり、当時としては高等技術を用いた計画的完全犯罪的な呪詛法と云えるものであった。
(参考、陰陽での「封じ」とは、悪霊等を封じ込める為のバリヤ(呪符や護符・結界の縄や石・塞神境神・・等)を張る事。呪詛祓いとは特定場所(異次元)に悪霊邪霊(障りとなる者(物))を送り込む事。又、人形等を怨霊鬼神等が生身の人間と思い憑依した処を、人形と共に処分する方法等も「悪霊祓い・神の怪祓」等と呼んでいたようである。結界(バリヤ)をもう少し説明すると、自然のバリヤとしては「四禽(神)相応の地」と云われる中国の奇門遁甲地相学(軍略的占術)の応用の一つで、東に青龍(流水)、南に朱雀(沢)、西に白虎(道路)、北に玄武(山)等が有れば四神が守護(バリヤ)する吉相の土地となり凶事が興らないとの考えを応用した代表的ものであつた。家や敷地の四隅に四神を祭祀する。又、四神の呪符を貼れば同じく凶事を防ぐものとして珍重された。又、特定の樹木を特定の方位に植えてその代用ともしたらしい。且って、崩御された天皇の御陵の前に植えられたとされる右近の桜、左近の橘・・等の樹木の植え方もこれ等の地相学の流れにての風水論(墓相学)の応用だったらしい。家宅内にもこの理論は応用され陽宅風水論等の家相学も発達していった。それはともかく、陰陽師の家宅等には四神の呪符を貼ったり、その他の塞神的神々や式神を配置したりして、敷地や家宅迄も迷路の如く異世界を形成する様に工夫し、侵入者の方感覚をも狂わせたらしい。更に、より強力な霊的なバリヤを期し、平安朝の御霊神社に類似するもの、先祖の墓や障りあるものの死体・・等々を家の玄関入口前に埋葬するなどしたり、呪禁道の厭魅蠱毒法の要領にて製造した屍骸や灰等を散布したりしたようである。呪禁道における忍者や武術者の如き様相や人的バリヤ・・等は陰陽道では余り使用されず、むしろ奇門遁甲(諸葛孔明が使用したとされる軍略的占術で、敵を鬼門に追い込み、味方を安全な場所に避難さす方法)的なもので、動物や怪しげな生物を飼い馴らし、使い魔としての式神による守護を主体としたバリヤか、家相地相を応用した迷路としての城塞的バリヤ、四隅に神々や四神を祭祀した守護バリヤ、門の入口前に埋葬した御霊神社的霊的バリヤ・・・等が特徴であった。前述の平安朝は彼等陰陽師を招いて地相を選び、彼等の築造計画(遁甲占術)に基づいて創りし都市なのであった。)
平家物語等に記載された物語の内容とは少し異なるが、謡曲の橋姫伝説「鉄輪(カナワ)」から、陰陽道を追捉してみよう。その、話しを要約すると次の様な物語である。
或男が妻と離婚して後妻を貰った。その噂を聞き知った先妻は嫉妬に狂い、貴船神社に怨みを晴らす為の願掛けに出向いて行った(丑の刻参り)。そこへ、貴船神社の官主が出てきて「貴女は京から来た者か?(神の御告げによると)三足に蝋燭(松明)を灯し、頭に鉄輪を乗せ、顔に朱丹を塗り、赤い着物を着て、怒りの心を持つと(願が叶うて)(貴女は)怱に鬼神となるでしょう・・・。」と云った。先妻は驚いて、そうこうしている間に、怱に、身が真当の鬼女に変身していった。
男(先夫)は毎夜毎夜、悪夢を見てうなされるので(不安となり)有名な陰陽師阿部清明に占って貰うこととした。
清明が言うには「御前は女(先妻)に呪われている。今夜にも命が危ない。すぐに、神に供え物等を用意し、その呪いを除くための支度をするように…と」と言った。
そこで、男は自分と後妻の姿とを型どつた藁人形を二つ作り、高杯(脚のある盆)に乗せ、御幣や榊、供物・・・等を整え、神前に供え、呪いから逃れようと一心に神に祈念した。
やがて、女(後妻)の怨霊(生霊)が鬼神の姿にて出現し、藁人形の髪を握って荒れ狂うが、祈り通じてか、恨み辛みを人形に当たり散らしながら退散し消えて行くと云う謡曲の筋書である。(橋姫は、今でも、明神として、京都の神社に祭られている。)
この謡曲の筋書をそのまま事実として信じることは出来ないが、当時の変態的呪詛法を風刺しながらも、良く表現していると言える。
女(先妻)に貴船神社の神官が神の託宣等と称して登場し、怨念の晴す呪詛方法を伝授した。その呪詛法はと言うと、現代の「丑の刻参り」の原型と言うべきもので、呪禁道の呪詛法、厭魅法の変型であった。又、赤い着物や朱丹を塗る等は神道、陰陽道、密教等の火の色、欲望の色、血の色・・・等で邪心の力を借りる色等種々考えられるが、易(遁甲や気学系の学派)の南を赤とし精神の入魂の場所とする考え方や、密教の降伏法を祈念する方位を南とした考え方、又、鬼神に捧げる生贄の血の色を赤とする考え方、インドの修羅、羅殺、道教の鬼神を招く儀式の供物の色の赤(血の色)等とも考えられ、インドの赤い神様(密教の愛染明王様)の浮気封じ、男女の愛の成熟願う儀式等にも幾らか通ずる呪法だ等とする考えの概念等がゴチャゴチャ混在したような変態的な呪法的だとの一面があった。
次に、男が、陰陽師阿部清明に悪夢の原因を占って貰うと、女(先妻)の怨念による呪詛(丑の刻詣)が悪夢の原因であり、その怨念(生霊)が人を呪い殺せる程のパワーがある空恐しいものと判断したとは誠に恐れ入った見解であり判断と言うべきだろう。 又、清明が男に教示した呪詛返しの方法とは先妻が行った呪詛と同じ呪禁道の藁人形を用いた呪詛返しとは陰陽師清明の偉大さなのであろうか?
尤も、神佛の前で(神域に於いて)、鬼神化した生霊が、藁人形と真の人間と間違えて怨みを晴らす場面の〈オチ〉迄付いているとは実に完璧と言わざるを得ない。神域とは通常魔性も邪霊も立ち入れないからこそ神域ではないのだろうか。強大なパア-を持つ鬼神(生霊)だったので通常の神仏様達では歯が立たなかったのであろうか。偉大な清明が灌頂した神仏でも同様なのだろうか。男の悔悟を促す為に清明がワザとその姿を具現化さしたのか。・・・・真実は清明のみ知るところであろう。
煩悩、執着を、心を乱す者全てを悪魔、妖魔等としたのが宗教でもあるが、反面、科学的、哲学的、学問的な宗教であり、自然に即応した生き方を希求する仙人道と人倫道を併せ持つ宗教である陰陽道が、まさかこのような裁きはしないのではなかろうか、疑問が残る回答である。
民族とは、仮に同一なる言語信仰、生活習慣、神話に帰属するものであるとするなら、宗教は多種多様性の寛容でなければならない。この意味に於いて、陰陽道が外儀的で、而も、納得がいく、一方便を我々に示したと考えることが、本当に妥当なのか。
或いは、その呪詛法が陰陽道の遁甲仙術であり、方便であり、眼晦ましであり、一種の処世術として考案された妖術的、幻術的、催眠法等の世界であると考えた方が良いのだろうか。
遁甲仙術(占術)とは紙や木片を呪符とし、鳥や動物・・・等に変えたりする事を得意とするもので、それを使い魔として駆使したりしたものである。遁甲とは元々易の学派の一つで、兵法として応用され研究された。人間を鬼の門(邪悪なものが集う処)から逃す方法が遁甲の意味であったが、人々(敵)を鬼門(鬼道)に誘い込む方法となり、兵法となった学問である。創始は中国春秋戦国時代の諸葛孔明とも言われており、著名なものに、後代の「孫子の兵法」等がある。
それはさておき、阿部清明自らが使った陰陽道の呪符五角形は西洋のペンタグラム(五芒星=悪魔の刻印)の魔除け=魔印=悪魔の印し・・等と一致し、又、ユダヤ教のダビデ王の印(ソロモン王?) に類似する修験道の蘢目紋(六角形)も西洋の天国の鍵でもあり、魔除けでもあり、魔印でもあり、完璧さを具現するシンボルであるのも謎が多い。
又、一説には、五芒星(五角形)、蘢目紋(六角形、ダビデの星)も、共に人型=魂とも云われているのも不可思議である。又、「二九四(ニクシ)と思へど、七五三(ヒチゴサン)、六一(ロクイチ)坊主に、八(ハチ=蜂)刺す」、これは西欧の魔女の「魔方陣」を作る時の原型的呪文であるが、東洋の「九星正盤・家相盤」等に似ているのも不可思議で、それが縦横に加えても15なるのも興味深い。
さて、陰陽道は神道の他民族や他氏族の祭神を妖怪視した事を受けて、更に、妖怪大行進の日、百鬼夜行する日まで定めた事は注目に値する。その日は旧正月の子日、旧二月丑日、旧三月巳日、旧四月戌日、旧五月未日、旧六月辰日等である。又、通常の日では一日の内、特に妖怪が蠢く時間は丑満時(深夜二時頃)等とも定めて時間にも鬼門の丑寅の時間帯を充当している。百鬼夜行の話しは今昔物語や霊異記等に良く登場するが、それに依ると、百鬼夜行の行列に遭遇すると、本人は勿論、その周りの縁者全てが死に絶えると云われ、恐れられ、外出を禁ずる「超凶悪忌日=現代の仏滅以上の悪日」を定めたのもこの陰陽道であった。逆にこの日は「山賊盗賊・強姦殺戮」・・等の傍若無人な輩達のパラダイスとなっていたようである。
陰陽道の悪霊祓い神の怪祓いとしての専門家の地位はこうして出来上がったものだろう。
陰陽道の良き面は儒教や道教等の哲理を受け、自然との即応した生き方、自然との刹那的感応を体として、善因善果、積善立功を説き、長生を願い、内外を問わず邪気を排し、正気を体内に入れる調息法や房中法、養生法等を教示した。つまり、全て世の不浄を排除し、我々に害ある物を排すれば、浄化され、自然の摂理に即応出来、而も、自然の治癒力を高め自然に即応した生き方等が出来て、息災延命に繋がると教えた貢献度は大きい。だが少々、環境論、易の宿命論に偏重し独善主義過ぎる面もあるが、道教の練丹(錬金)、薬餌、房中(性教育)、調息(呼吸法)、武術、体術、気功、鍼灸、薬学(本草学)等に於いて、少なからず独善的仙人道だが、道教の科学的で進歩的概念等以って日本に与えた影響は大きい。
反面、陰陽道は儒教の人倫の道(中庸)と天命と忠恕による君子道(仁道)を教えたことを受けて、それ等を変革して天の摂理と解釈した。そして陰陽のバランスの乱れにて百鬼夜行の如き妖怪達を多く出現すると考えた。それは或一面では神道の禁忌タブーに通ずるものだが、バランス論と鬼門論(悪しき者が集う所=魔性の住む異世界=異次元への扉)等にて、正邪の区別を明確化し過ぎた為に、神々の多くを魔性にして悪魔として登場させたりして行った。だが、その中には判然とせず只漠然として、善神と悪神を対立させたものもあるが、全て神々の興亡は天の理となって、多くの犠牲を出し過ぎ所に方便とは云うもののその短所も大であったと考え併せて見るべきだろう。
そしてそれ等は又、人と人との差別意識等迄をも増長させ、呪者対呪者、陰陽師対陰陽師の力比べ、宗教同志の呪詛合戦と発展し、政治家達の陰謀へと荷担し、武器として応用され、利用されて、宗教の本質とはかけ離れていった事を・・。
預言術+占術(仙術)+天文学+倫理学+哲学・・・等を持つ鬼に金棒な宗教、陰陽道だけに、逆に、術者の人間性が要求されると云う事だろう。
余談となるが、少し、神通力を持つと云われる仙人に付いて考察して置きたい。
楞厳経には次の様に10種類の仙人を説明している。
@彼の諸々の衆生の中で、衣服を選び、食事を慎み息まされば、薬道を成就して仙人となる。これを地行仙と呼ぶ。
A草木を食して、身を堅固に勤め休まざれば、薬道を成就して、飛行仙となる。
B金石、即ち、錬金術にて製したものを食して、その身を堅固に勤め息まざれば、仮尊を成就して、遊行仙となる。
C動止を慎み、気を守りて、形を固くして息まざれば、気精が円熟して、空行仙となる。
D津液、即ち、甘露を食して、身体堅固にして休まざれば、潤徳衍成し、天行仙となる。
E雲霞の精色を吸い、日月の光華を食らいて、形を堅固にする時は、吸粋円成し、塵沢日々に去り、清虚日々に来り、通行仙となる。
F呪禁の力に依りて、修めて休まざれば、術法円成するが故に、動行仙と名づける。
G想を頂門に存して、心気海にかけて、形を堅固にして息まざれば、思憶するを以って、照行仙と名付ける。
H元精を求め、交合し以って、形を堅固にして息まざれば、感応円成し、精行仙と云う。
I世の変化を感じて、形を専らにして休まざれば、覚悟円成せり。これを絶行仙と云う。・・・・・と説明している。
又、禅仙一致の古訓に
「知者は、財宝を、頭に貯えて、懐に貯えず。俗人の心は頭にあり、仙者の心は、足下にあり・・・・」と。
経に関する感想としては、俗人の中にも多く居そうな人(仙人)達でもあり、実に意味深な言葉であるが、
日月の光華や雲霞等を喰らいて生きる事は常人に出来そうもないが、経を信じるなら、特別な力を有する仙人達も多いようだ。是が陰陽道達や道教等が目指した仙人達の仙人道なのである。
次に密教について述べて見たい。