第二章、 鬼道法(悪魔を支配、使役する法)の発達
(一)神々と精霊と言魂信仰(神話と大和朝)
私達の先祖神であり、氏神である、我が国の神々の用いた呪詛法(鬼道法)は、大きくは、次の三種に分類出来そうである。
(一)、神々が話される言葉には霊妙な力「霊力が宿る・神力(魔力)が宿る・神性霊性が宿る・・・等」があると云われていた。それは神々の意思や言葉の意味通りの神秘な力(直接呪詛)が発現したからであった。後には神々の言葉は意味不明となり、一種の呪文として扱われるようになって行った。為に、巫女による神勅、託宣、信託・・等々が重要視される事となるが、それでも、意味不明な託宣も多かったりして神々の言葉の真意はしばしば曲解されたりしながら、その霊力と神力・呪力や妖力の効きめ、効験のみが先行し、次第に、呪詛のみが重要視される事となり、言葉での呪いが発達して行った。
(参考、(イ)後に、言葉に霊力妖力が宿る事は言霊信仰と云われるが、それにも直接呪詛、間接呪詛(主に物にも魂が宿るとの事)があった。又、後世の修験者が呪詛するときの恐ろしき言葉と怒声はこの直接呪詛の継承と思われる。(ロ)言霊の呪詛例は[我は、悪事も一言、善事も一言]と言った葛城の一言主神も登場している。(ハ)インド神話のバギヴァッドギータの一節には[人が着古した衣を脱ぎ捨てて、別の新しい衣に着替える様に、魂は、古い肉体を捨て、他の新しい肉体に移る。]と述べている。)
(二)、神々の世界では言葉にも霊力が宿る如く(直接呪詛)、全ての物にも霊力が宿る)と考えられていたようだ。これが間接呪詛である。全ての物にはそれを使用する者により、浄と不浄があり、浄(清浄)なる物には善霊が、不浄なる物には邪霊、悪霊が宿ると考えられた。又、神々は浄を好み不浄を忌(嫌)まれた。後に、浄なる物は不浄を祓い清める霊力があり、不浄なるものは祓い清めないと厄災をもたらすと解釈された。不浄は更に、禁忌(タブー)、物忌・・・等へと発展していった。ここにも、又、鬼道を発達させる要因が存在していた(全ての不浄は祓い清めて清浄にする必要が有るとの考え方が定着し、神官によって儀式化され、これが継承されている事)。
(参考、(イ)後に、これ等は精霊信仰や物活論と呼ばれるものに似た思想であり、間接呪詛の例証と云われるものだが、先の直接呪詛に付随するものとして存在している。全ての物を神々と見て、神々の怒り、祟り、神罰を鎮める為の生贄、神々の蘇生、再生等の儀式。神々の威光、能力を強め高める為の興神法。その法を継承し伝承する為の祭祀法。又、榊、桃、水、鏡、剣・・・等の物を神聖視し不淨を祓う力があるとした。墓(冥界の住人)、死者等は邪悪な物、不浄なものであるとし、土砂・岩や縄等にて死者の魂を封じようとする蔡法。又、鳥を神と冥界の仲介者とする鳥葬や風葬。又、土葬・屈葬等にて一応埋葬はするが死者の頭骸骨に穴を開けて魂を送り出す葬法など。更に、肉体は滅ぶが、魂は永遠にて、他の物に憑依したり、転生したり出来るとする考えなど。又、息、衣服、髪の毛、持物・・・等にも魂は部分的に乗り憑いているとし、上記の品物や人形、土偶等を呪術の道具に使用したり、それ等の副葬品等も死者と一緒に埋葬したり呪詛法等使用する等から考え合わせると、西洋とは少し異なるが、シヤーマニズム的精霊信仰、脱魂宿魂思想、祖霊信仰。湿気から生れると云う湿生。それに、母体や卵からでなくいきなり自然から生れると云う化生・意識怨念から生ると言われる意生・・等の思想が混在して有ったとも考えられる。その代表的な形態が自然とその事象を神々とする思想。女神様等の処女懐胎伝説・神々の天地創造伝説・男神の体からでも出生する神々。又、死人の魂はすべて神になるとし、神として祭祀する葬法等々。又、自然崇拝とその信仰。神々の系譜であり子孫である自負とそのもの等を尊崇する信仰形態・・・等々との信仰の発展経路を考え合すとこれ等の事柄が想像出来る。 (ロ)前述のインドの神話「ギータ」には、輪廻の世界に魂を縛っているのは業(カルマ=行為)であると説く、カルマ(業)は、万物に生命を与える創造の力・・・と)であると説いている。)
(三)、我が国の神々は多神であり、天地創造神でもあり、我々の先祖神としての生産神・生殖神・智福神・守護神(村の鎮守)・・・・・等でもあった。又、神々は肉体的には死すが、永遠の生命を持ち、蘇生、再生、転生が出来る神々であり、その性情は人間と同じく有情で喜怒哀楽があり、悩みも多き神々でもあった。この様な神々の気まぐれな性格は、当然、解釈次第では鬼道部分が人間と同様に多く存在することにもなったのである。
(参考、(イ)神々の世界は多くは神話の世界であるから、その真偽は当然疑わしい。だが、神の性は火神を生むかと思うと水神を生む、又、冥界(黄泉の国)にも入れられては逃げ出してこられたり、神々でも甦生したり、変身したり、機嫌を損ねると天の岩戸にお隠れになると云った案配で、神々の行為自身も、何を考えているのか測り難い。しかも、甦生・転生・輪廻・・・等何でも有りの世界であり、神秘な不合理な世界なのである。(ロ)余談であるが、我々の死について、神道では「我々の死は神様と自由意志にての合意による決定事項であり。死ねば高天原に至り神様となる」と言うのが一応我々の死の終着駅である。ヒンズー教でも一応神々との合意説をとるが、我々の[肉体が死しても、自我(アートマン=輪廻転生する魂の事)は地上に留まり存続し・・・]と説く。仏教では[自我(魂)も肉体も因縁仮和合のため、死ねば全て消滅する]と一応説くが、宿業説と因果報応説等が混在した寿命説でもあり、六道輪廻もあるようだ。概して、東洋の宗教は「人間の死は人間自ら選んだ事柄」とするの大方の見解である。我々庶民は「神様の思し召し」・「こればかりは、どうしようもない」が一般的であるようだ。)
さて、前記(一)の言霊信仰とは、次の様な神話に基づいている。(間接呪詛の例)
神話の中、「海幸彦、山幸彦」の話しは良く御存知と思うが、意地悪な兄の海幸彦に各種条件付で借りた大切な釣針を失ってしまった弟の山幸彦が、途方に暮れて悩んでいると、海神の娘が表れ、釣針を見つけてくれた。そして事情を聞き同情した娘は、兄に復讐する為の呪詛方法を伝授した。その方法とは、「淤熕鉤、須々鉤、貧鉤、宇流鉤」と言って、後ろ向きに鉤(釣針)を返せと云う事であった。オバチは悩み愁いある釣針、ススチは恐荒なる釣針、マヂチは貧乏なれとの釣針、ウルチは悲しき釣針の意味を含んだ言葉であった。つまり、この呪文を掛けられた〈釣針〉で魚を釣ろうとしても、一匹も釣る事が出来ないばかりか、貧乏になれとの呪いを掛けた釣針であったのである。確かに、このようにして返された釣り針を使用した意地悪な兄の海幸彦はその言葉通りとなったのであった。
上記は、ほんの一例であり、これに良く似た神話等は古事記等の至る所に遍在している。
さて、上記の事で御解り頂いたように、神々が、呪いたい相手、敵対する相手を殺したいなら、直接呪詛して「お前は、何時々死ぬ。」と予言すれば良いのであり、又、呪いを解く場合等でも、一定の儀式等を行う条件にて許す場合や、貢物(供物)等を相手に要求する場合等、恨みの強弱にて色々なやり方が行われたらしい。とにかく「蘇生せよ」とか、「転生せよ」とか、罪人の島流し感覚にて「転移せよ・何々に変易変容せよ・・・」とか意味する言葉を言えば良かったのだ。それは、又、永遠不滅の魂を持つ神々の神技(特技)と考えられるものであった。又、神々の行為の中で、貢ぎ物等捧げ詫びる行為等は極めて、人間的行為に類似したものも多く、今でも、我々の生活慣習として、多くを継承している。
だが、後世、こうした神々の性情、言葉等は意味不明となり儀式化した。その中、特に言葉は呪文として継承され祝詞(ノリト)の一部となって行った。その為、一方では神の言葉を神聖視しながらも、その時代時代の言葉に依って解釈するために、神の託宣、預言を行う巫女、占い師、神官等の登場に頼る事なったが、しかし、真偽はあくまでも、神官、巫女等の能力に委ねられる事となって行った。人々はその神意(真意)をめぐり、試行錯誤を繰返し、又、一部の者に利益と利権、政権等に利用応用され、鬼神化した人々によって、無差別的な呪詛合戦を存在させてしまったようであった。
私考すれば、(ア)私達は言霊信仰から意志伝達の方法だけでなく、言葉の大切さ、言葉の使い方、言葉の及ぼす魔力(霊力)を良い方に使う事を学び取る必要があった。(イ)又それは、私達が社会生活や共同生活を営む為の意思伝達の手段であり、共存協和共生に必要不可欠なものであった。(ウ)間接呪詛に於いて、人工、自然及びその事象を問わず物に対する考え方を、天恵としての大切さ(神様からの賜物)を、自然の恵みを、自然の摂理を良く理解しながら、同じ生命体である動植物から私達は生命エネルキ゛ーを得ている事を自覚し、感謝と深い内省のもとに、天恵を無限と解釈するのでなく、有限と解釈し無駄な利用を避け、それ等を保護し育成していく必要があった。(エ)神々とは違って、私達は、肉体的にも精神的にも未完成である。その私達に取って重要なのは、生命の神秘ではなく、生命の尊厳と他に対する同様の配慮と恕ではなかつたのか・・・・と。
(参考、インドのウパニシャット(奥義書)には、本来我々の魂は梵(=ブラフマン=大我)と我(=アートマン=自我)との梵我一如で構成されているが。死後はそれが分離して、ブラフマンは天界に昇り常住不変となるが、アートマン(自我)は死後もこの世に留まり、輪廻転生の主体となると説いている。)
次に前記(二)、物に浄と不浄が有るとの考え方は、次の如く、神話等に基づいている。「伊耶那岐命(夫)と伊耶那美命(妻)の説話」より、夫の伊耶那岐命は妻の伊耶那美命が雷神を産み落とし、雷神の火に灼かれて死んでしまった事を悲しみ、黄泉国(死後の世界、冥界)へ連れ戻しに行った。しかし、伊耶那美(妻)は食してはいけない黄泉の国の食べ物を食してしまった為に、夫と一緒に帰る事は出来なかった。そこで、黄泉の国の神に何とか頼んでくるから、その間、私の姿(腐乱死体)を見ないで下さいと夫に言いおいた。 だが、夫は妻(妻の魂が留守の間に=幽体離脱・脱魂伝説?) との禁を破り、火を灯して妻の姿を見てしまった。妻の体は腐乱し蛆がわき、十種の雷が付着していた。驚いた伊耶那岐命は逃げ出すが、妻の怒りは強く、魔女や幽鬼等と共に追いかけて来た。伊耶那岐命は身に付けていた桃の実、櫛・・・等でそれを防ぎ、数々の不浄な災厄に遇わされながらも、命からがら逃げ出し、黄泉の国と現世の境界(出入口)を大岩で塞いだ。その後、衣服を脱ぎ捨て、清流にて沐浴斉戒(ミソギ)するのであった。
(参考、この時、イザナミ(父親)の左目より出生したのが、アマテラス(天照皇大神)である。アマテラスは処女にて母神となる。その孫ホノニニギが高天原(神界天界)から我が国大和(日本)に降臨されて、天皇の祖先となられたと言う。アマテラスは一説には天上にて光の織物を織る織女とも云われ、女神(アマテラス)の織なす光の紋様にて世界は運行しているとも云われている。つまり、アマテラスは我々の運命を含めた全ての運命を司る(織り成す)神だとも云われる由縁がここにある。)
この神話は、次の事を私達に物語っているようだ。
(イ)、「火神を生み、その為に死す」とは生殖者(生産者)、天地創造神等の意味では納得できない面がある。神話の中には木の精、動物・・・等と交わり妊娠し出産した神々も多いし、男神の体の何処からでも子供が産めるし、女神も処女にて懐胎出来る・・等々と云った按配である。これは、神々には肉体的構造的に異質なもので有っても、生殖には何等問題が無かったと考えるべきか。我が身の分身は何時でも作れると云うのか、別の神秘が隠されていると考えるべきか疑問が残る。又、これ等の事は森羅万象の全てのものに生命(魂)を認めたとも解釈され、本質的にも全てのものは神々から創造されており、神々の世界から見れば神々と同一性だったとも考えられる。神々は生誕と同時に夫々固有の霊力が授かっていた。それは万物に同種の生命(魂)を認め、本質的(肉体的、元素的)にも同種であると考えていた事にもなる。
とにかく、後の神婚譚にも何等かの影響を与えているようだ。又、一説には死の体験談等は通過儀礼とも解釈されるが、夫々固有の霊力があり固有の生れ状があり、又、塞神(境神)等の存在からすると、未だ真偽の程は不明だと言えそうだ。
(ロ)、神々と云えども、黄泉の国の食料を食すれば、黄泉国とその国の神の掟と支配を受ける如く、神々と云えども、個々夫々の神界では、お互いに犯してはならない暗黙の法律や同意があり禁忌(タブー)が存在していたようでもある。
(ハ)、黄泉の国は=冥界=死後の国等となるが、そこからの脱出は死からの蘇生(再生)となる。だが一般に云われるように通過儀礼(死の体験)なのか、妻の伊耶那美神が云うように、黄泉国の神に直接許しを得て直訴して蘇生出来るもう一つの方法が有ったのかも知れない。又、冥界とこの世の入口を塞ぐものは大岩の他には、後に、縄、杭、釘、針、堀、門、鳥居、塞神(境神)・・・等が同様に死者の魂と冥界等を封じる力が有ると考えられ追加されて来たようである。とにかく、現世とあの世とは我々の先祖神においては陸続きのごとく容易に往来が可能であり、この世とあの世(異次元)は有る一定の場所から繋がっていたこととなる。為に、その入口は通常大岩の聖霊・境神・塞神・・・・等が関所の門番のように守護していたと云えそうである。
(ニ)、さて、伊耶那岐命が冥界(黄泉の国)にて災難に遇し時、桃の実、櫛、装身具、剣、衣服・・等を投げ、一時的に災難(不浄=災難)等を回避出来たことや、脱出した後、清流にて斉戒沐浴(秡)等を行った行為は、後に、物にも浄と不浄が有ると考えられ、浄なる物は一時的に不浄(悪)を払い清める力が有ると解釈された。その中には清水を含めて神具として多く追加厳選され神聖視され現在に到っているものも多い。又、清流にての斉戒沐浴等は身心を清め神と感応出来る能力を得られると云う解釈も追加され、秡=沐浴済戒(禊)、潔済、祓、贖罪、興神、鎮魂・・・等として儀式化され継承された。勿論、それ等は呪いを防ぐ力があると解釈されたのは当然の事であった。そして、このことは時に応じて全ての物がそれを使う者との関係にて、神々の霊力妖力にて淨にも不淨にもなると解釈出来たのである。
前述、(イ)〜(ニ)は、物に浄と不浄との説明であるが、神々の霊力妖力等にて物にも魂が宿り、使い方に依って、自らの分身にもなれるとの考え方になる。故に、物にはその使い方によって浄なるものと不浄なるものとの両面性が存在することとなった。故に、我々は神々の霊力にて全てが神々の意志の侭に存在し、物でも使用の仕方で淨にも不浄にもなる存在と認識さされた。それに神々の禁忌、物忌(言霊信仰)の意を含めて拡大解釈すると、不浄なもの=禁忌=邪悪な者=呪う者=害する者・・・等々となり、祓い清める必要ある者(物)となった。つまり、後世の呪者(鬼道師)が、不幸、災難の原因は、因縁の祟りや障りに有りとして、無差別的にお祓いしたり、供養したり、呪詛、怨敵退散・・・等々を行うに到った鬼道を正当する理論付の要因がここにも早々に存在していたのであった。
しかし、神々が教えたのは、天上の神々の国にはそれ自体個々の規範(摂理)が有る事と、言葉や道具(人間の知恵を含む)などの使用について、言葉の大切さや物や他に対する思い遣りを教えたに過ぎない。実に神々の世界は我々にとつては、常に不可思議で不可視不可知な世界なのであった。
次に(三)について述べよう。
何度も述べた如く、我が国の神々は天地(宇宙)の創造主であり、ギリシヤ神話の神々の如き、生産・生殖者でもあり、各々の役割使命があり、特殊霊力・・・等を持つ多神であった。而も、我々と血脈が有るとも云われる氏神的有情が有った。つまり宗教的には他国の神々の性情を全て兼ね備えた素晴らしき神々であったが故に、逆に判然としない不合理で不確定性的存在でも有った。この様な神々の性情だから後に問題化して行くのである。
前述の伊耶那美命は雷神(火神)を生み落し、死して黄泉の国(冥界)に至るが、大国主命ではこれが、彼の兄弟達に二度も殺され、二度とも母神の力によって黄泉の国から蘇生する事が出来たが、兄神達の災難を逃れさせようと、母神が死者の国に又送り帰すのも異様である。だが、大国主命も冥界の素戔鳴命の与えた試練を耐えて、素戔鳴命の娘を妻として現世に甦ると云うのも奇怪な行為なのであった。
要するに、我国の神々は肉体的には不滅では無かったが、永遠の霊性的生命力(生命エネルギー=光エネルギー・光そのもの?) を持ち、蘇生、再生、甦り、転生、転化出来得る神々で有った。又、他方では、国造りを行い、護国豊穰、息災延命、子孫繁栄等を願いながらも、我々を救済してくれる優しさと喜怒哀楽を兼備し、而も、個性豊にして人間味あるが故に、我々の為に悪魔降伏、怨霊退散・・等を呪詛し守護してくれる神々でもあり、又、必要なら相反する性情の火神、水神等を同時に生み出す創造神でもあり智福神でもあったのである。
神々が我々の心からその存在が遠のくにつれて、これ等の事柄は火神を祭祀する火神の子孫としての氏族、水神を祭祀する水神の子孫としの氏族・・・・等々を多く誕生させ、氏族間、部族間の紛争の要因を活発させて行った。
(参考、概して、インドの神々や仙人は文化的な知恵を教え、中国の神々、神人や仙人は少し独善的だが、錬金術等の医学的、科学的知恵を教え、日本の神々や仙人は人々を救済する慈善家としての知恵を我々に教えた。)
又、彼等氏族は自らの神の名に於いて、他民俗の異神を全て、邪悪な者、妖怪として排除したり、従属したり併合して行ったらしい。 それは、神々の存在が我々の魂から遠のくにつれて、降神、招神、降霊等が出来る神官、巫女・・・等が族長としての支配権を握り、神の言葉を伝える様になってから一層顕著となった。そして彼等は又、神の名の下に多くの儀式儀礼を整理し完成させ、集団の統率力や支配力、権力等を一層強固なものにしようと企てたのであった。その儀式の中には、神々が浄(善)としたと称し、神々の怒り、祟りを鎮める鎮魂法・神々の志気を昴かめる為の踊り等を行う興神法・貢ぎ物等を捧げ許しを請う贖罪法・神々の供え物としの生贄法・不浄を祓う大秡・神々の御霊を鎮める鎮魂祭・・・等々の儀式も完成し、呪詛法としての鬼道法が整えられて行く事になったようである。
(参考、仏教の究極目標が生死を超克する事にあるのなら、或る意味で死後の魂が古代インドのウパニシャットの説く梵天の世界(ブラフマンの世界=天界)に行けば輪廻転生しないと説くのと、道教の仙界=桃源郷・仏教の仏の浄土や極楽・神道の高天原(神界)等に行けば輪廻しないとの説と類似している。日本の神々はユダヤ・ギリシヤ・キリスト教の神・・・等と同じく蘇生、再生、甦る・・・神々であった。仏教はこれ等の神界は六道の最上階ではあるが未だ欲界とし、神々も天界の住人も輪廻転生の対象としている。更にその遥か上に存在する輪廻転生しない佛界(浄土)等を用意しているのである。死に対する考え方は、キリスト教では人間の寿命と死は神への反逆による罰が定説であるが、日本及び東洋の神々では概して、人間の死は神々と人間の合意にて、人間が自ら選んだ事柄だと云う「神々との合意説」が定説のようである。我々には天界も極楽も同じ様に思われるが、概して、我々の終着駅は輪廻転生のない極楽浄土が最高で、行けるか行けないかは別にすれば、一応一番無難な終着駅と思われた。)