第一章、神と仏の概念

(一)鬼(鬼神=悪魔)の定義
現在、日本の宗教は色々な諸宗教、諸宗派が混在しているが、大きくは仏教と神道。本尊としては仏と神に区別することが出来そうである。
 神とは、本来、人間技を越えた霊妙な働き、作用、不可思議性・・・等そのものを指し、 仏とは、本来、時空を超越した宇宙の根源的存在・理法を悟った者(人)、或いは、如実に自らの心を直視し悟った者(人)の意で、如来・如去・仏陀・覚者・・・等と尊称される人々のことらしい。
 人間技を越えた霊妙な働き、作用を有する神々の中で、破壊を好み、邪悪な概念を持ち、邪法を駆使すると言う魔性の者が鬼であり、鬼神=「破壊神・邪悪性・魔性の者=邪悪神・悪魔・化物・病魔・死魔・屍鬼・邪気(鬼)・化生・瘴気・障鬼・・・」等であると言われている。此処では、鬼神=魔性の者として、鬼神=鬼の意から、「鬼」を代表格として、その邪悪な概念の概要を大きく定義しておこう。
 最初は、鬼も、神霊、精霊・・・等にして、神様を指す言語であったが、後に、ヒンズー教、道教、儒教、仏教・・等の中で、邪悪なものの代表となった。彼等の云う「鬼」=魔性「悪鬼神・屍鬼・化生・邪霊・妖怪・瘴気・邪気・災厄・妄執・・・等」について定義を試みると、概して、次の六種に分類出来そうである。
 (一)、神(善鬼神、善神)は陽なる神であり、不可視不可知にして、真美善そのものであるが、邪悪なもの魔性=(悪鬼神、悪神、その他の邪性)は陰なる神にて、不可視不可知ではあるが、偽妄偽善汚穢そのものである。
 (参考、善神、悪神との対比的説明は多くの書物に記述されている。例えば、善神を創造神として美化し、悪神を破壊神として忌み嫌うかと思うと、ヒンズー教のように、善悪両神を祭祀し、両神の力のバランスにて世界の平安があるとする考え方。又、陰と陽との対比を善と悪・理と智・・・等とし、陰陽を世界の構成要素とする元素論的思想は儒教、道教系流(易的)、密教系流に多い。又、印度のウパニシャット(奥義書=哲学書)では、世界の構成要素を梵と我とし、我々の魂は普段(生前)は梵我一如であるが、死後は、梵(ブラフマン)は天上界に、我(アートマン)地上に留まり輪廻すると述べている。仏教神道は心を惑乱する妄執・我執や煩悩が悪魔であると表現し、佛界と俗界・彼の世とこの世・淨界と不浄界・神界と魔界・・・等として区別している。又、魂の構成要素を魂魄と表現し、魂は天界に、魄は地上に留まり輪廻するとの説もある。要は、両者はともに、神秘で、不可視、不可怪な存在ではあるが、善神を美・善・光・男・・・等とし。悪神を全く正反対の、醜・悪・暗(闇)女・・・等に例え、東洋流の一元論を基底とする表裏一体的な考え方を明確化する為の手段的な思考と云えそうだ。)
 (二)、鬼(悪鬼)とは、神出鬼没にして、凶悪残忍、人の血肉を喰い、精気を吸う。為に、人を妖誣妖訛(人を誑かす妖しげな術)し、人の魂を弄ぶ反面、善神(善神・仏・如来)の教化教導にて、法(正法・善法)を守る護法神、守護神、善鬼神・・・等ともなり、又、人々に財や富、寿福禄等を与える寿福神智福神等々となり得る神々でもある。 
 (参考、此処では悪鬼神達の個性や魔性、それに付随する妖力や魔力が問題で、それに我々が如何に係わるかの方法を模索している。言葉を変えると、悪鬼神が善鬼神に変じる事項の説明だが、仏教では神々の棲む世界でもあり魔王も棲む世界を天界の第六他化自在天(欲界の最上階)としている。超能力を持つ魔王の棲む六天信仰(静岡を中心とした「マオ−さん」信仰)も、この一例となる。又、邪悪な者の別名としては羅刹の親分格が夜叉で、その子分が羅刹・阿修羅・・・等とも呼ばれ、訳して「暴悪・悪疾鬼・闘鬼・屍鬼・餓鬼・化生・邪鬼・外鬼・害鬼・怨霊・・・」言われている者等もある。鬼神達が肉体を有するか否かには厳密な区別はない。肉体なき印度の修羅、羅刹もあるかと思うと、その都度、再生、蘇生できる妖怪等、種々雑多である。霊的存在と考えられ、それが一般的だと思われるに至るには、大変長い年月を要したが、その思想が大勢となったのは中世の中頃と云われている。仏教が魔王待遇(梵天、鬼子母神、大自在天、大黒天様・・・等)したのは他宗の神々の主要神で、仏教では多くは天界の天部(天部は六道の最上部、六道とは、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道で生前の行いにより、輪廻転生すると云う世界)に配したが、地獄界、畜生界、我鬼道等の天界以下に配した鬼神=邪悪な者(外道)も多く、何れにも属しない特別待遇した夜叉明王様等もある。だが、何れにしろ、その処遇は主に破壊神、智福神、護法神、使者としてであった。その為か、後に彼等を最高神の現象と理論づけ、本性的には最高神の表裏と説明した。又、最高神は性的には中性と思われがちだが、何故か日本の仏教の善なる仏様には妻子はおらないが、インド・チベット密教・・等では、羅刹を始め、他の神々様には勿論、仏様(如来様)にも妻子がおられたり、明王様にも妻子はおられたりするのが一般的なのである。) 
 (三)、鬼(邪悪な者)とは魔性であり妖力魔力を有する闇の生き物<魔界、魔窟、不浄な場所)等に集う霊魂(魂魄)>の総称であるが、神として祭祀された鬼神(霊魂)も多い。神として、その霊魂(魂魄)を祭祀する事は邪神の妖力を福神に変えて応用せんとする人間の強かさが感じられる。魂魄とは神道・陰陽道に依れば、魂と魄は一体不可分な存在で、全てのものに存在しており、死(消滅)後、魂は天に上昇し、魄は地上に留まり輪廻すると説明する。又、魂は善性にて善神。魄は邪悪な性にて悪神と云う。つまり、魂魄にて全ての霊魂の総称とする。又、天界に上昇する魂は陽、魄を陰であるとも云う。儒教(孔子が開祖)のテキスト礼記によれば、「魂気は天に帰し、形魄は地に帰する。云々」とある。
 (四)、邪悪なもの鬼とは、人間の怨念、恨み、妬み、嫉み、不満、闘争心、征服心等の欲望を満たす賊悪心に反応し、好んで憑依(憑つく事)する反面、その邪性の姿形等は、鏡等にはその本性が映るもの、映らないものが有るとも云われたり、一定の呪文や儀式、貢ぎ物、忌物(嫌いな物)等にて、一定期間、時間だけ、彼等の妖力、魔力を封じたり、使役する事が出来る弱点も有ったようである。だが、彼等の力を、本当に使役、支配しようとする場合は、一定の儀式や貢物等の他に、誓約、契約、約束が必要であると云われる。だが、願望が成就をした依頼者が、悪魔(鬼神)との約束事・誓約事を不履行した時は、彼等の恐るべき復讐と罰を覚悟せねばならないと云う条約が課せられたとある。 
 (参考、この文意からは、西洋の悪魔を連想されるが、東洋にも誓約や密約を必要とする、この類の悪魔(鬼神)も結構多い。又、自ら食を断って餓死し、鬼(悪魔)に化身し、情念を満たした聖人の話などもある。又、呪う者、呪われる者、その何れで有っても、善なる神仏によって助けられたり、加護されたりした例も多いが、仏教では呪う行為をした者は因果報応の理法により、大抵は地獄行となるようだ。呪詛等の行為を実行し成就した者のなかにも、神として祭祀されているものが多いのも、何か奇異な感がするのは私だけだろうか。) 
 (五)、邪悪なもの鬼とは魔性にして、悪魔、妖怪、化物、物怪、邪霊、生霊、魑魅魍魎、幽霊、化生・・等と呼ばれるもの、悪しき心の総体でもあるが、それが、怨念、情念、執念、欲望・・等の悪心にて鬼神化し、強大なエネルギーをもつ幽体となり、この世に留まり、恨み、望み、怨念等々を晴らす話しも多い。(参考、邪悪な神、邪悪なものは善神の数と人間の数、否、森羅万象の全てに匹敵するほど存在しており、普段は平静を保ち四散して存在するとも云われる、だが何かに憑依してしか生きられない等々とも云われ、邪性は時として協力仕合い巨大化する場合もある。怨念が集中して、強大な妖力を持ったと云われる幽体としては創作かも知れないが、四ツ家怪談の「お岩様」等が特に有名である。今では、お岩様は、正一位お岩稲荷大明神として祭祀され、浮気封じの神様(善神)として今も慕われている。) 
 (六)、邪悪な者、鬼神達は魔界、地獄界、臭悪・・・等の場所に限らず、至る所に遍在する。主に夜行し、人々の心の邪悪と凶暴性植え付け、増長させ、自らの欲望を満足せんが為に、殺生、動乱、殺戮、戦争・・・等の世を好み、欲望の侭に人を呪い害する事を好む人々の心に憑つき、隙があれば、この世を地獄界、魔界に変えようとする残忍非道の肝智にたけた連中ではあるが、結構、知能の幼稚な者も多く、喜怒哀楽の激しさを持つ妖怪や霊魂でもある。 
 (参考、地獄界とはこの世で悪行をなした死者の魂が行く処と云われ、鬼を番人として、業火に焼かれる処や針山にて串刺しにされている処等が、地獄絵図として、多く存在する、主に道教や仏教の世界観である。日本の神道では黄泉の国がある。節分等の鬼の原型は中国道教の呉道子が鬼門(東北の方位)説を参考として描いたのが原型のようだ(牛の角(丑)に虎の褌(寅)と云った案配)。又、餓鬼、畜生、修羅等の三悪趣や地獄界に住む住人達、それに、使い魔、眷属達、他宗の神々、精霊までも仏教では邪悪な者としているようである。又、仏教では女人は成佛出来ず地獄行となるようだ。その為か、極楽浄土には女人は居らないようだ。密教が盛んとなる迄は仏様(如来様)には妻帯者も無かったようだ。又、儒教の開祖と云われる孔子が霊魂の存在を信じていたかどうかは疑問であるが、彼の著「論語」に「その鬼(自分の祖先霊)に匪して、これを祭は諂いなり」と云い、鬼神=霊魂であると認め、言外に霊魂の存在を肯定している。更に、孔子は自分の先祖霊以外の霊を祭祀(供養)する事は、他人にベンチャラする事と同じ行為であると弟子に回答しているのであった。)
 以上が、邪悪者としての鬼の定義であるが、日本の邪悪なもの及び神々の思想の中に、邪悪な者を鬼とした、中国道教、儒教、陰陽道、易の鬼門(丑寅=東北に邪悪なものが集まるとされる思想)、仏教密教等の考え方が、混在して優勢となり、鬼の概念が拡大解釈されたと考えられる。しかし、日本にはこの概念に当てはまらない、座敷童、河童、大入道、一つ目小僧、貧乏神・・・等々の妖怪達も多く存在していたのであった。又、我々の先祖はとっては、常世の国(神の国=高天原)から来たとして、蝶を魂しいと考えたり、狼を大神=真神として崇めたり、河童が水神だったり、神様が小人(一寸法師的)だったり、童だったり、蛙が太陽を招く神様だったり、実に多くの動植物、森羅万象、聖霊・・・等までが真神であったようである。
 (参考、前述「日本の多くの妖怪達」は、宗教的色彩とは余り縁が無いものが多く、宗教に苛められる迄は我々の先祖と仲良く共存していたもの達であった。つまり彼等日本の妖怪達は、一部を除き、前述概念(邪悪な者= 鬼)から、削除されるべきもので、多くは精霊的なもののようで、素朴で純真な俗信仰に支えられていたようであった。) 
 ともかく、インド、中国、日本と三国伝来の鬼=鬼神とは、日本の幽霊=お化け=化生=意生・・・等のことと同一視されるようになり、邪悪な霊的作用、邪悪な精神的存在を指す代名詞となり、森羅万象の全てに憑依出来、不変ではなく、而も、我々と同じく輪廻転生する輩であると定義付けが出来そうである。又、通常は、破壊や殺戮等の邪悪そのものを好み、それに専心する神々が悪魔であるが、我々の都合にて「善と悪・破壊と創造」両面性ある神々を善鬼神・別格の夜叉明王・魔王・大王・天・・・等と呼称したとも云えそうである。   (※意生・化生については後章で説明しています。)
  対して、善なる神仏とは、概して、次のような概念が混在していた。 
 (一)、時空を超越した根源的な存在、宇宙の最高精神(宇宙の法則・宇宙意志)・創造神・絶対唯一神・真理そのもの・・等としての神仏。 
 (二)、宇宙の根源的存在の現象(命令や伝達・救済・・等の何らかの使命を帯びたもの)としての神仏で、善悪両心が混在する神仏。輪廻転生はするが最終的には最高神に帰一する神仏。
 (参考、根源的存在の現象としての神仏とは、(イ)創造主的神仏から創造されたとする神仏。(ロ)汎神論的神仏。(ハ)仏を本地とし神をその垂跡とする神仏(本地垂迹説)。(ニ)元素的、素成的、本性的には同一性(神性仏性霊性・・等を具有する未覚醒な神仏)とされる神仏。(ホ)理を万物の根源として気(陰陽)をその現象とする。つまり気(陰陽)が森羅万象を生成するが、その気をコントロールしているのが理であるとする宋代の朱子(儒家)に似た考えにての神仏。(ヘ)祖霊ではあるが、理由が有って神仏として祭祀され、神社仏閣の祭神となりし神仏(霊妙力を神格化した神仏を含む)等が考えられた。) 
 (三)、(イ)善なる神仏が陽、陰なる神仏が悪。(ロ)木火土金水、地水火風空識等の素成的(五大所生、六大体性、法界体性等)に我々も神仏同じで本性的に善性であるなら、本質的には全てのものが善なる神仏に帰一出来るとの考え方(万物に仏性(善性)があるとする考えの拡大解釈か)なる神仏。(ハ)この他には、自然崇拝、霊妙なる力、霊魂、神秘性、不可知性までも神仏とした。(ニ)又、死後、天界に上昇する魂しいを[魂]として善性にして善神佛、地上に留まる魂しいを[魄]として、悪性として悪鬼神とするなど、主に神道、儒教、道教・・・等の神々。更に、印度中国蒙古・・等の仙人や俗神。陰陽道・・・等の真神(仙人)や俗神などが考えられた。 
 (四)、又、仏教が宇宙の根源的理法(存在)を悟った仏陀=法身(釈迦如来)も、大乗仏教や密教に於いては、変化身、等流身と位置付けした考え方も出現し、前述一〜三の神仏に似た定義も試みられている。しかし、そこには、内容的に根源的理法と根源的存在の立場の差異。理と智の差異があるだけで、本性論としては而二や不二の差異的論争とも考えられた。つまり、彼等の云わんとする所は輪廻転生しない神仏が善神であり、輪廻転生する神仏が悪神だとも取れる云い方である。だが、他方では、全てのものが悉皆成佛と説くのであった。 
 以上が、善なる神仏の定義であるが、これから推する限りでは、妻帯者であるか否かの低級な理論を別にすれば、宗教の神仏に於いては、善と悪、神と仏とには余り厳密な区別は無かったようである。又、これらの考え方が肯定される裏には神仏は善にも悪にも強くなければならず、善なる願いも、悪なる願いも、叶えて下さってこそ神仏と云う、我が国日本に於ける一般庶民の願望の表れが潜んでいたと言うべきだろうか。或いは、善なる神であろうと、悪なる神であろうと、表裏一体にて、神仏に変わりがないので祭祀したと云うのが本音なのか、或は、神仏の世界では人間の善悪性は無関係と云うのが本音なのだろうか。 
 とにかく、善神も悪神と云う差別等も、我々との関わりにて、名付けられ、生じて来たものと定義できる。それは、とりもなおさず我々の心の葛藤であり、我々の心を映し出す精神史なのである。
 (参考、鬼とは本来の語義は邪悪な者が外から来るとか、外来者とか、夜間に蠢く者の意味であったらしい。それから考えると、日本の幽霊、妖怪、化物、化生・・・等との考え方と少々異点が有ったが、次第に宗教ナイズされて来た。つまり日本の幽霊、妖怪、化生、意生等が総称されて「お化け」となり「鬼」となったのだろうと推測される。元々、アジア全域に流布された脱魂伝説で有名なものにはインドのベェーターラ パンチャベィンシャティカー[屍鬼二十五話]がある。黒月の十四日深夜の二時頃、墓地にて人骨の粉末にて大曼陀羅を描き、四隅に人の生き血を盛り、人の脂肪(油脂)を灯明とし、祭壇の中央に屍体を置いて行う護摩は、インドの鬼神ベィターラ(起屍鬼)に捧げる儀式や死体に取り憑くベィターラの説話等が語られている。又、チベット仏教の説教師(マニパ)からは、六道輪廻や地獄界巡り、閻魔王の地獄の審判等が口承されている。これ等のことは日本を含むアジア全域に、人間の魂魄が死後肉体から抜け出て、さ迷い出でて後、新しき肉体に宿り替えると云う信仰と伝説が存在していたことを意味していた。それ等の思想が日本に入り日本の妖怪等の思想に多大の影響を与えた為だろう。)
 又、悪魔は、仏教では修行の妨げとなる煩悩が悪魔であったが、次第に、外敵と準えて捉える様になり、それらを打ち破ろうとする呪法が考えられた。更に、仏教とその教団、仏教国を滅そうとする者等が悪魔となった。平安時代以降は更に転じて、国家鎮護を大義名分にして、悪霊、妖魔等を怨敵として追い払う事を目的として、守護国法等も出来、それに、敵対者(怨敵)を滅す降伏法等の呪術も当然の如く修法された。神道も密教以外の仏教の各宗派も、この点に於いては密教ナイズされたようだ。しかし、日本の宗教のなかで、特に他宗を排斥せんと折伏等(自宗を最高として他宗を誹謗する事)を行う排他的な宗派は日蓮宗系の宗派を除いては余り存在しないのも日本の国民性なのだろう。
 さて、話しは少し変わるが、我々が物を見たり、物を使ったりするなにげない行為の中にも、我々は物に対して好き嫌いや良悪を感じている。ユングやアイシュタインの云う如くなら、物質は人間の精心(脳)の表層部に影響を与え、不可視不可知で神秘的である精神的なものの全ては脳の奥底にある魂に影響を与える事となる。だとすると、若し、我々が宇宙意志に感応出来たなら、魂に良い影響を受けることになる。逆に、感応出来ず嫌悪として受け取るなら、その魂は悪い影響受けることとなる。悪影響受けた魂は、独自の空間を形成し、相互相依相関しながら、我執と執着の中でさ迷う人生を模索する事になるのだろう。此処に、我々は常に自己の魂に呼びかける深い思索と反省が必要となるのであろう。
 余談となるが、インドでの鬼は屍鬼的であり、中国の鬼は幽霊、幽鬼的な悪鬼神達であった。だが、日本の鬼は文学の鬼、政治の鬼、芸術の鬼・・・・等とも呼ばれ、何かに没頭する意味も兼ねた智福神であり寿福神であり、善鬼神も多かった。又、節分の鬼は、家の主人から、この豆(炒った豆)が芽を出したら娘をやろうと云われ、大人しくそれを待っている心優しき鬼達へと変身して行ったのである。これも日本の独特の文化でもあったのである。

 次節では、何が真実かを考えながら、流れにさ迷う心を私考して行きたい。