はじめに

   はじめに
 現在、世界の物理・科(化)学・医学・宗教・哲学・・・等の学者達は真理そのものの追求において、絶対神=宇宙の最高精神、宇宙法則、宇宙意志(意思)・・・的等存在が理論上合理であるとし、それを「霊性的存在・神性的・仏(法)性的存在・真善美そのもの・・・」等であると認め、「存在も無く、無でも無い」 不可知・不可視である神秘的存在に一歩一歩、謎のベールを解き明かそうと一致協力し合う姿が見られ始めた。至上合理主義、至上科学主義の片寄りを是正する動向であると考えられた。
 他方、世界の情勢は二大イデオロギーで有った自由主義と共産主義のうち、共産圏の経済的破綻が主因となり、共産主義社会主義的神話が崩壊し始めた為に、その思想主義が虚無となって、両者の対立と力のバランスは虚構化して行った。その結果は、曲がりなりにも、世界の諸国が同じ俎板の上で(同じ思想主義の上で)話し合うことが出来る状況になると誰もが判断し予想した。だが、諸国間の国情に於ける正義と正当性・合法性と合理性・思想や信念・習俗や慣習・・等々の何れを取っても、その主義主張の差異は大きく、逆に多くの「難問と争乱騒乱等の危険性を内在」等々を顕現化さす事になって行った。 
 且って、我々人類が歴史と云う「時の流れ」の中で、科学と宗教の対立と同じく、真理の探求との大義名分のもとに、物質文明と精神文明を異質な物として対立させ、有限性なるものと無限性なるものとに執着し、何れかの思想を重要視したり、神聖視したりして、自然の摂理を軽視し、支配せんとして、我々の先祖も我々も、その時代時代にて、時代の価値観と生活文明、更に、我々の歴史をも史実をも、その時の都合にて、変革し、交互に崩壊させ続けたのであった。しかし、今迄は我々の犯したこの重大な過失(汚点)も、その都度、自然の治癒力、浄化作用、自浄能力を待てば、何とかなって来たのであった。
 だが、我々は今、自然の治癒力すら、限界に達している事柄等を併せて、痛感させられているのであり、我々は、重大な岐路に立ち、過去に行った行為の償いを、宇宙の法則、宇宙意志でもある神仏(自らに)にしなければならない事を、自覚し、認識し、進むべき進路を選ばなくてはならず、しかも、それは、我々を含めてオゾン層の破壊や皮膚癌の多発等々と云う、地球の自然や生物の生存環境を脅かし、地球そのものまでも危険にさらすと言う難問を含めて、早急な解決を要する重大な社会的環境破壊等の問題そのものとなって来ているのである。
 何時の時代でも、同じだが、時代の変革期(動乱期)には、人心の動揺に付け込み、「世界は破滅する」などと叫び、「世紀末相」の悲惨を宣布し、それを煽り立て、有りもしない超能力、託宣・預言等を得たと称し、自ら「救世主面」をした者達、自ら悲劇のヒロインを演じる者達・・・等(新興宗教を唱える者達・・等)が蠢くのが特徴であるが、自浄能力を失いかけた世界に於いて、過去の「ノアの箱船の如き」救世主は、無用であり、我々の進むべき道を、再度誤らせたのは、虚偽の事実を最らしく吹聴した詐欺師や妖誑的鬼道師で有り悪魔の鬼道師達であり、魔道師達であった。現在、世界は、その様な頑迷な言葉に迷わされている暇と時間すら無いのであるが、この手の輩は今も多く、而も、跡を絶たないのである。
 昔から、方便と称して、正道と鬼道が表裏一体となり、人心を惑乱し続けた。確かに、騙される方にも問題が有ったのであろうと思われるが、彼等の様に自らも行った行為迄も、他人に転化し、善人面をして自ら悲劇のヒロインを演ずるに到っては、正にピエロであり、詐欺師であり、社会の害虫外敵と云えるだろう。
 思うに、正道と鬼道の狭間にて、人心の魂を誑かしながら、真に惑乱し続けた者等は、一体誰かと、良く良く誰何すれば、私達は、それが、神仏でもなく、為政者でも、賢人でも、況して、宗教家でもなく、闇に紛れ、魔性を隠し、親近性を持ち、即神秘性、即効験性を、人心に賢伝出来た闇の主宰者鬼道師達とそれに諂う者等で有った事を、理解するのは容易である。
 鬼道(魔道)とは、元々中国の儒教や道教的表現ではあるが、妖術、魔術、邪法・・等を駆使し、欲望のままに悪事を働く者等の代名詞であり、鬼道を良くする者が鬼道師(魔道師)と呼ばれたのであった。 奈良時代の表現では呪禁師とも呼ばれ、「呪いのスペシャリスト達」を指す言葉でもあった。呪禁師とは本来、マジナイで、人々を治療する医者のことであったが、後に、時の政府から、左道(邪悪な法)、妖訛(人々を誑かす妖しげな法)、厭魅蠱毒法(形代=(人形))等にて、又は、動物の魂魄(霊魂)を繰り人を呪い害する邪法等と呼ばれ(呪禁道と陰陽道を含めた批判)、排斥された奇々怪々な邪法が呪禁であり、怪しげな妖術(呪禁)にて魔性を駆使する者達が、呪禁師でもあり、魔道師であった。つまり呪禁も鬼道も魔道も、人を呪い害する邪悪な妖術・魔術との意味で、同じ意味であったのである。 
 さて、人々の素朴な呪術信仰、俗信仰の対象でもあり、精神文化の支えでも有った「神としての鬼神達」を、正道を自称する諸宗教が、賊心降伏(煩悩を、祓い清めること)・現世利益・・・等の名目で、鬼神達を崇めたり、応用したりして、終には、人々を呪詛する怨敵退散、悪魔降伏等の法を考案し、人を害する為の武器として、鬼神達を同士討ちさせたり、鬼神達を、支配、使役するなどの行き過ぎた行為の行使は、人々を正しき道に導くための手段だとしても、許されるべき行為では無かった。その為、科学分野から、これ等の行為は全て迷信として排斥され、自虐史観が台頭し、わが国(日本)の精神史の断絶という将来への禍根を残すことにもなったのである。
 だが、多くの人々は、今だ、現世利益を即実現してくれるもの、自己の欲望と不満を解消してくれるものとしては、鬼神達や鬼道師達の方がより頼もしく感じられるのか、今も細く脈々と、大衆の中に断片的だが、深く根強いている。それは又、羅刹・夜叉・鬼神・邪神・魔性のもの・・・等を本尊とするある宗教が[幸、不幸の原因]は、全て[因縁の障り・祟りである。]と嘯いて、責任を他に転化する言い訳に金を払って荷担したとも云えるものであった。 
 その為か、何が正道で、何が鬼道か、又、誰が善神で、何が悪神か、頼るべき神仏は誰か、等の区別すら出来難くなり、正道でも、善神でも、私達の物欲、欲望を満足してくれる神佛が神仏でありであり、物質文明をも、物の豊かさをも、無尽蔵に肯定してくれるのが神仏と信じる輩ら迄出現し始めた。そして、彼等は、又、自らの精神史をも惑乱しつつ、否定した中で混乱し、歩むべき方向と目標を見失って行った。
 つまり、人々の心が、鬼神化し、物と人・自然と情報、その調和・節度・摂理・恕・・・等が溥すれ、自らパニック化して、自己本意的生き方を、真の自由や幸福と錯覚してしまったようである。換言すれば、現代人の気質から、人間としての[知と情と意=愛智・情知]のバランスがパニック化していると云えるだろう。
 その責任を、今更、誰に有るかを箴言するつもりはないが、それは自然の摂理と法則を無視し、それを支配しようとした傲慢な人間にあり、その償いは、全てが負わなければならず、宗教と云えども、同じなのである。宗教的表現を借りるなら、人間が鬼神の妖力と知恵とを人間の欲望を満たす為にだけ応用しようとしたが為に、今、鬼神達は身勝手な人間に対して、罰としての、報復と復讐を企て、それが、始まったと云えるだろう。それは又、人間の心が鬼心化したからだと云えるだろう・・・と。
 本書は日本の歴史の中で、精神史に重大な役割を果してきた宗教の中で、この事を私考したい。何が宗教の鬼道部分で、何が正道部分かを少しでも明らかにし、宗教が人間の正しい精神史の担い手で有って欲しいと期すのである。又、今後の宗教のあるべき姿をも、併せて予測して見たいのである。 それは又、人間としての精神的向上を企てる、物の理を明かす知恵である情知、全ての物を愛することを知る愛智が、諸宗教からは情念として、執着として、煩悩として、排斥された。だが、時空を越えて、真理そのものに同化感応できる人間として唯一の物は人間の持つ感情、魂、精神(意思)であり、それが智に優先して存在してこそ為し得るものだからである。
 現況に於いては、もはや、専門家と称する人々の予測すら誤りが多く、頼れない時代ですらあると、私達は自覚しなければならない、又、近代社会の学問や常識、信仰等は全て、作る側(専門家)からの発想と観察と体験に基づいているので、近未来に於いては、信仰する側、作られる側、或いは宗教や哲学の云う直視、直観に立って観点を変え、真にそれが、人間の幸せに貢献するか否かと云う立場から、その価値が、人間のあるべき人間性に如何に満足を与えるか否かを考える必要があるのではなかろうか、又、或る人が云う様に、「有と無」などの相対するもの全てに存在価値を認めながら、思想変革をしなければならないのだろうか、とにかく、それの問は、正道と鬼道の狭間に存在し、現代の民衆の被害妄想と言うタカリの構図と平和惚けを支援した知識階級と、宗教の誤算の構図を明にする事から、始めなければならないだろう。何故なら、それ等も又、我々の創りし精神史だからである。

  (※本書にて、引用させて頂きました参考文献は、惑乱と煩雑を避けるため、文中にての表示はなるべく省略し、巻末に一括して、掲載致しおりますので、御了承ください。